どんな才能や感覚も、使わないと磨きをかけるどころか維持することすら難しくなることがあるので、
投打両方の感覚や筋力を維持するために想像つかないほどの練習を積み重ねておられるのでしょう。
それはともかく、
私はこうありたいという目標がある時何らかの努力が必要になることがあります。
明確な目標を持ちそのために必要なことやなすべき事を見定めたら後は実践努力あるのみ。
ホームランを打つ、早く走る、ダイエット…
仕事上でも何でもスキルを上げたい売上目標を達成したいなら勉強や研究を重ねる、実践して経験を積むことが必要でしょう。
これに対して悟りノンデュアリティでよく言われる覚醒や目覚め、気づきというものは努力がいらないと言われることがあります。
本質の観点からいうと確かに努力不用です。
これを理屈で説明すると、
本質的には努力する主体もなければ誰か(主体)によって得られる結果(客体)も存在しないからです。
そのため悟るために「何もする必要がない」とまで言われることもあります。
もし悟りというものがあるのなら皆んな始めから悟っている
つまり、多くの人が抱いている私はまだ悟っていないという体験も幻想であるように、覚醒(悟り)体験もまた幻想だということです。
今日のお話のポイントとしては、
意図する観点で努力が必要であったり不用であったりします。
理屈の上でこの二つは決して一つにすることはできませんが、
しかし本質的には何の矛盾もない非二元(二つでないもの)です。
どちらの観点から論じるかでお話の内容や入り方も変わってきますし、
この辺りを見極めていないと混乱したり相手と話が合わなくなったりします。
悟りたいという分離の現実の観点からすると、
悟る(覚醒目覚め解放etc)ためには少しばかりのエクササイズは必要になるでしょう。
そこは野球選手と同じですしスピリチュアル的な馴染みのある考え方です。
私も国内外のスピーカーさんの本やブログを読んだりそれについて思考を重ねたりしましたよ。
ただ努力するにしても気をつけたいのはその練習努力したベクトルの先にそれ(覚醒等)があるという認識ではなく、
あちこち放浪した果てに自分の内ポケットの中に宝石が入っていたことに気がついたという、古来からある譬喩の物語はとても良い参考になると思います。
でも目覚めたから終わり、ではないんですけどね。
これまでにも触れてますけどこれはまた別の機会に。
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