1 池田屋事件から禁門の変へ No. 2 | ヨカニセまことのブログ

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   新撰組登場

   五日の夜、池田屋には長州藩士をはじめとする尊攘派の志士たちが続々と集まってきていた。この日の早朝、新撰組は四条小橋に店を構える枡屋喜右衛門という武具商を捕縛する。喜右衛門は変名で、本名は古高(ふるたか)俊太郎。古高は枡屋を志士たちの会合場所に提供していた者だった。

   古高の捕縛を受け、その対応策を協議するため池田屋に集まったのだ。古高の奪回、つまり新撰組屯所(とんしょ)の襲撃も議論されたらしい。
   一方、古高を捕縛した新撰組は取り調べの結果、志士たちが京都を火の海にし、その混乱に乗じて孝明天皇の長州への動座(どうざ)を計画しているとの結論に達する。新撰組はすぐさま会津藩に対し、志士の捕縛の許可を求めた。


沖田総司のphoto
   池田屋事件の翌々日の七日、京都の会津藩公用方(こうようかた)から江戸の会津藩邸に送られた書面に、当日の動きが次のとおり記されている。公用方とは、会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就任するにあたり、その実務を担う機関として新設された部局である。会津藩は京都に藩邸を持っていなかったため、当時は黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)を本拠としていた。

  (中略)

   前年の文久三年(一八六三)八月十八日、会津藩は薩摩藩と提携して、政局の舞台・京都から長州藩を追放する。長州藩を後ろ盾に朝廷を牛耳っていた三条実美(さねとみ)たち公卿も、都落ちを余儀なくされた。いわゆる文久三年八月十八日の政変である。
   巻き返しをはかる長州藩は、翌元治元年に入ると京都出兵の機会をうかがう。八月十八の政変以来、京都に入れる長州藩士は朝廷から制限されていたが、実際京都に潜入した藩士の数は、それをはるかに上回った。会津藩への復讐計画が進行しているとの風評も喧(かまびす)しかった。京都の長州藩邸は志士たちの秘密アジト化していたのである。
   会津藩の配下である新撰組はこうした状況を危惧して、枡屋こと古高を捕縛した。そして、志士たちの不穏な計画を知る。よって、彼らを捕縛するため会津藩に応援を要請したのである。
   だが、会津藩は志士たちの捕縛には二の足を踏んでいた。これ以上、長州藩から恨みを買うことを恐れたのである。

   会津藩と長州藩は、幕末史では常に不倶戴天(ふぐたいてん)の関係として描かれる。しかし、両藩がそれを望んでいたわけではなく、本書で解き明かしていく複雑な政情が不幸な関係を生んでしまう。それも事実上、文久三年八月十八日の政変以来のことだった。幕府倒壊の僅か四年前にはじまり、急速に両藩の関係が悪化していくのだ。そして、この池田屋事件が決定的な分岐点となる。
続く…




photo 引用

  「幕末維新  消された歴史」
          武士の言い分・江戸っ子の言い分
      著者  安藤優一郎より抜粋する(°∀°)b