衛藤 晟一
元参議院議員
元内閣府特命担当大臣
元内閣総理大臣補佐官

「この子らに」ではなく、「この子らを」

「この子らに、ではなく、この子らを、なんですよ、先生」

北岡賢剛さんは、私と会うたびにそう言っていました。

北岡さんから教わったことは、数えきれないほどあります。

出会いから今日に至るまで、北さんは常に私に「現場の声を聴くことの大切さ」を教えてくれました。

彼の生き方そのものが「糸賀思想」、すなわち糸賀一雄先生の言葉である「この子らを世の光に」を体現していると、私は感じています。

どんなに時代が変わっても、障害のある人々が地域の中で尊厳をもって生きられる社会を信じ、そのために行動し続けてきた人です。

バリアフリー映画やバリアフリー演劇という新しい文化活動にも早くから取り組み、障害者福祉を単なる「支援」ではなく、「共生」として社会に根づかせようとしてきました。

舞台の上にも、客席にも、「人が生きる姿」そのものを伝える。

その信念の奥には、糸賀思想に通じる深い愛と哲学があります。

日本の福祉には、日本ならではの良さがある

北欧の福祉制度は、しばしば日本のお手本として語られます。

しかし、北さんと行動をともにする中で、私は「日本の福祉には、日本ならではの良さがある」と改めて実感しました。

地域のつながり。

現場で働く人々の細やかな気遣い。

そして、制度の隙間を埋めるような小さな創意工夫。

そうした温かい力の積み重ねが、日本の福祉を支えているのです。

カップラーメンが教えてくれた「小さな幸せ」

北海道のグループホームを訪れた時のことは、今でも鮮明に覚えています。

利用者の方に、

「いま、何が楽しみですか?」

と尋ねました。

すると返ってきたのは、

「休みの日にカップラーメンが食べられるのが嬉しい」

という言葉でした。

最初は、その素朴さに少し驚きました。

しかし、すぐにその言葉の深い意味に気づきました。

安定した生活の中にも、自分の意思で選び、自分で味わうことのできる自由がある。

それこそが、生きる喜びの本質なのだと思ったのです。

入所施設の整備や支援の仕組みづくりも、もちろん大切です。

しかし、「一人ひとりの小さな幸せ」をどう支えるのか。

それこそが本当の福祉なのだと、私は教えられました。

グループホームの家賃補助につながった現場の声

四国のグループホームを訪れた際には、こんな言葉を聞きました。

「お母さんが亡くなったから、やっとグループホームで暮らせるようになりました」

その方は、満面の笑みでそう語ってくださいました。

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなりました。

親が子を思う。

そして、子は地域の中で自立して暮らしていく。

その暮らしを支えることが、福祉の使命です。

こうした現場の「声」をもとに、私は共同生活援助、いわゆるグループホームに対する月1万円の家賃補助制度の創設に踏み出しました。

その背中を押してくれたのも、北さんでした。

彼は常に現場に寄り添い、そこにいる人たちの声を私に届けてくれました。

福祉から文化へ――アール・ブリュットへの情熱

北さんの情熱は、福祉の枠を超え、文化の分野にも広がっていました。

「障害者文化芸術推進法」の制定に向けて、「アール・ブリュット」という言葉を法律の中に入れたいと考え、私は法制局と議論をしたことがあります。

その際、

「日本の法律にカタカナを使用する場合、例えば『アニメ』のように、その言葉について国民の共通理解が必要です」

と指摘されました。

私は思わず、

「アニメよりも、アール・ブリュット、生の芸術のほうが、実は国民に広く知られている」

と発言しました。

北さんの情熱を、言葉にしたかったからです。

障害のある人々が生み出す純粋な表現の力を、社会の中心に置く。

その発想は、まさに文化政策の新しい扉を開くものでした。

現在活躍しているヘラルボニーにとってデビューの場ともいえる、安倍総理時代の首相官邸での2回の展覧会。

そして、文化庁の玄関ロビーで行われた展覧会「心がかたちになるとき」。

これらは単なるイベントではありません。

「誰もが文化を通じて尊重される社会」を象徴するものであり、その根底には北さんの思想がしっかりと流れていました。

令和7年に開催された大阪・関西万博でも、障害者の芸術が紹介されました。

それもまた、北さんが長年取り組んできた活動の礎があったからこそだと考えています。

障害者自立支援法の混乱を乗り越えるために

平成17年、障害者自立支援法が施行され、大きな混乱が起きた時にも、課題を整理してくれたのは北さんでした。

私は安倍総理に対して、この混乱を解決するために補正予算を編成するようお願いしました。

その結果として、難局を乗り越えることができました。

制度だけを見ていては、現場で本当に何が起きているのかは分かりません。

その現場の声を、北さんは常に私のところへ届け続けてくれました。

議員バッジがない時期に深まった絆

議員バッジのない時期、すなわち私が落選中だった時こそ、北さんとの絆は一層深まりました。

ある日、彼から、

「精神科病院の閉鎖病棟で体験入院をしてみませんか」

と提案されたことがあります。

正直、驚きました。

しかし、その経験は私の人生観を変えるほどのものでした。

翌朝、洗面所で出会った入院患者の方から、

「見ない顔だね。いつまで?」

と尋ねられました。

「今日帰ります」

と答えると、その方はぼそっと、

「退院、早いね。軽いんだね?」

と言いました。

その一言に、現場の現実の重さを感じました。

日常の中にある孤独。

そして、その中にある小さな希望。

精神科病棟での一夜は、政治家としてではなく、一人の人間として社会を見るきっかけを与えてくれました。

おそらく、国会議員の中でこうした経験をしたのは私だけでしょう。

どんな立場にあっても変わらず支えてくれた人

北さんは、私がどんな立場にあっても変わらず支えてくれました。

政治資金パーティーの席では、いつも最前列に座っていました。

私が福祉の話を熱く語りすぎると、優しく笑いながら聞いてくれていました。

その笑顔に、どれほど励まされたか分かりません。

政治家として立場が変わっても、選挙に勝っても負けても、北さんとの関係は変わりませんでした。

アメニティーフォーラムから生まれた法律と議論

全国地域生活支援ネットワークが主催する「アメニティーフォーラム」にも、私は毎年参加してきました。

もう30年ほどになるでしょうか。

ここには、各政党の国会議員、厚生労働省の担当者、障害当事者、そして全国の福祉実践家たちが集まり、率直に意見を交わします。

この場から、数えきれないほどの新しい法律につながる議論が生まれました。

例えば、「差別禁止法」ではなく「差別解消法」としようという議論を重ね、その後、「障害者差別解消法」が制定される契機の一つになりました。

こうした動きの中にも、北さんの信念とネットワークが生きていました。

単に人を集めるのではありません。

現場、行政、政治をつなぎ、そこから新しい制度や考え方を生み出していく。

北さんは、そうした場をつくり続けてきた人でした。

「日本の福祉を考える会」と、福祉を政治の中心に置くということ

「日本の福祉を考える会」も、北さんが中心となって立ち上げてくれました。

選挙のたびに苦労している私を心配し、政治連盟ではなく勉強会として組織してくれたのです。

障害分野だけではありません。

高齢者分野、こどもの分野など、全国の福祉実践家のみなさんとのつながりをつくってくれました。

その広がりは、すさまじい勢いでした。

この会議では、本当に多くの議論をすることができました。

福祉を政治の中心に置くという理念。

そして、人間の尊厳を何よりも大切にする政治信条。

その根底にあるものは、北さんから私へ確かに伝わったものです。

北さんから受け継いだもの

長い年月の中で、北さんには「添い遂げてもらった」と言っても過言ではありません。

彼が見つめてきた福祉の未来。

そのビジョンを、これからは私自身の責任として受け継いでいきたいと思っています。

北さんのあふれるパッションを感じながら、その想いを形にするための政治活動を、これからも誠実に、そして情熱をもって続けていきたいと思います。

日本の福祉の未来のために。

そして、すべての人が「光」として生きる社会のために。

まとめ――北岡賢剛さんの情熱が日本の障害者福祉を動かしてきた

北岡賢剛さんから私が教わったのは、制度や政策の知識だけではありません。

現場に足を運ぶこと。

一人ひとりの声を聴くこと。

その人にとっての小さな幸せを見つめること。

福祉と政治をつなぐこと。

そして、障害のある人を「支援される存在」としてだけではなく、社会を照らす存在として見ること。

それらはすべて、「この子らを世の光に」という糸賀思想につながっています。

北さんは、その思想を言葉だけではなく、行動によって示し続けてきました。

福祉の現場でも、文化芸術の世界でも、政治との接点でも、その情熱は多くの人を動かし、新しい制度や仕組み、そして新しい価値観を生み出してきました。

我が国の障害者福祉がここまで充実したものになった背景には、北さんの情熱と行動があった。

同じ時代を生きた人たちは、そのことをみんな知っているはずです。