「木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退」 ~4月28日の出来事~ | 歴史ブログ

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歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。


~4月28日の出来事~

【木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退】

元亀元年(1570) 4月28日、
織田軍の殿軍を買って出た
木下藤吉郎が、
越前金ヶ崎城より撤退する。


この年の四月二十日、
織田信長は
若狭の武藤氏 攻撃を建前とし、

事実上は
越前・朝倉氏討伐に向け京都を出陣、
二十六日には
越前・金ヶ崎城(福井県敦賀市)を
落としました。

しかし、翌日に、
信長の妹婿であった
浅井長政 離反の報が伝わった為
やむなく全軍を撤退させますが、
ここで大活躍したのが
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)でした。

藤吉郎は信長に対し、
自ら撤退に際しての殿(シンガリ)役を
買って出ました。

藤吉郎にとっては
一世一代の大博打で、
藤吉郎の意気を認めて喜んだ信長は、
蜂須賀正勝、生駒親正、前野長康、
木村常陸介、加藤光泰の
五人の武将を加勢に付けました。

更に援軍として参陣していた
徳川家康にも助勢を頼むと、

信長は松永久秀を先導役に任命、
朽木谷を経由して
京都へと退却していきました。

相次いで退却した諸将も
藤吉郎の意気に感じ、
それぞれの軍から精兵を選んで
三十人、五十人と残していった為、
藤吉郎は五百程の軍勢を指揮して
殿(シンガリ)を務める事になりました。

翌・二十九日の夜明け前、
家康の退陣から撤退戦は始まりました。

この頃には
既に若狭や近江の一揆勢が
道を塞ぎ始めていましたが、
家康勢の殿(シンガリ)を務めた
内藤正成や渡辺半蔵の奮戦により
一揆勢を蹴散らしています。

続いて藤吉郎の撤退が始まりました。

木下勢の殿(シンガリ)は
蜂須賀正勝が務め、
鉄砲隊を最大限に機能させて
敵勢を防ぎつつ、
朽木谷方面へと進みます。

藤吉郎は苦労を重ねた末に
無事に京都へと戻り着きますが、
大きな幸運があったことも事実でした。

それは朝倉勢の追撃態勢の遅れです。

事実、
朝倉義景は五月十一日になり
同族の景鏡を大将とする
二万三千の兵を
江北に出陣させていますが、
既に信長の退却から
十日以上も過ぎており、
戦術上ほとんど無意味なものでした。

無事に大役を果たした藤吉郎は、
信長から一層の信頼を寄せられる様に
なりました。

信長の桶狭間、
家康の三方原と共に、
「金ヶ崎ノ退き口」は
木下藤吉郎秀吉が
後に大成する大きな切っ掛けに
なっています。