「井伊直政 死去」 ~2月1日の出来事~ “徳川四天王、井伊の赤鬼、この世を去る” | 歴史ブログ

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~2月1日の出来事~

【井伊直政 死去】
“徳川四天王・井伊の赤鬼、この世を去る”


慶長七年(1602) 2月1日、
徳川四天王の一人・井伊直政が
関ヶ原で受けた傷が原因で没す。
享年42。



徳川四天王、
徳川十六神将の一人に数えられる
勇将・井伊直政は、
永禄四年(1561)二月十九日、
今川氏の被官で
遠江・井伊谷(イイノヤ=静岡県浜松市)
城主・肥後守直親の子として
生まれました。

直政 誕生の前年には
桶狭間ノ戦いが起こっており、
ここで祖父・信濃守 直盛は討死しました。

更に直政 誕生に喜んだのも束の間、
翌年には小野但馬の讒言により
直親に謀反の嫌疑が掛かり、
直親は今川氏真により
誅殺されてしまいます。

これにより、
当時、万千代と名乗っていた直政は
井伊谷を追われ、
新野左馬助に養育されて育ちます。

徳川家康との出会いは
天正三年(1575)二月十五日の事でした。

その頃、家康は、
しばしば鷹狩りをしていましたが、
この日、道端に控えていた
直政(当時十五歳)に目が止まり、
帰城後に召し出し
近習として採用しました。

家康は直政を寵愛し、
失った旧領・井伊谷を与えた上に
井伊谷 三人衆と呼ばれる
近藤秀用、鈴木重好、菅沼定治らを付け、
直政を盛り立てる様に命じたと
言われています。

直政は次第に勇将として頭角を現し、
数々の戦いで戦功を挙げ
家康の期待に応えました。

同・十年に武田氏が滅亡すると、
家康は
武田氏の旧臣を直政に付けました。

武田氏と言えば
飯富虎昌から弟の山県昌景に
引き継がれた「武田の赤備」が
有名でしたが、
直政はそれを引き継いで
配下の将士に朱色で統一した軍装をさせ、

世に「“井伊の赤備”」と呼ばれました。

北条氏 滅亡後に
家康が関東へ移封された際には、
直政は上野・箕輪城主に任ぜられ
家中筆頭の十二万石を領しました。

しかし関ヶ原ノ戦いに於て、
退却を敢行した島津惟新(義弘)を追撃、
島津豊久や阿多盛淳を討ち取るなど
大きな戦功を挙げますが、

薩摩の士・柏木源藤に鉄砲で撃たれて
負傷してしまいます。

戦後、
直政は石田三成の居城であった
近江・佐和山城(滋賀県彦根市)に移り、
十八万石に加増されました。

しかし、
鉄砲傷の状態は思わしくなく、
一年余りを経たこの日に
まだ四十二歳の若さで世を去りました。