「大阪城・天守に大砲が命中/塙団右衛門が夜討ち」 ~12月16日の出来事~ | 歴史ブログ

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~12月16日の出来事~

【天守に大砲が命中/塙団右衛門が夜討ち】


慶長十九年(1614) 12月16日、
徳川方の放った大砲が
大坂城・天守に命中、
侍女数人が即死する。

また大坂方の塙団右衛門が
東軍の蜂須賀至鎮 隊に夜討ちをかけ
侍大将・中村右近を討ち取り、
「夜討ちの大将・塙団右衛門」の名が
広まる。





豊臣家に難癖を付けて
開戦に持ち込んだ徳川家康でしたが、
大坂城を大軍で囲んだまでは
良かったものの、
小競り合いとは言え
大坂方の奮戦もあり、
なかなか思うようには
いきませんでした。

家康は戦いが始まってからも
和議を並行して進めさせていましたが、
一説に、豊臣秀頼は、
南海道の二国を得るならば
大坂を去って移っても良いと
譲歩しますが、
家康は安房・上総の二国を提示した為、
秀頼が承知しなかったと言われます。

そこで家康は、十二月十四日、
側室・阿茶ノ局を呼んで
淀殿の妹・常高院を説得させようと
しました。

そして威嚇の意味で
この日、砲術の達者な者を数十人集め、
大坂城・天守に向けて
南北から大砲を発射させると、
そのうちの一発が天守の柱に
命中しました。

これにより
周囲にいた侍女たちは吹っ飛び、
天守は西に傾いたと言われます。

この状況を見た淀殿は
急ぎ大野治長らを呼び
秀頼に和議を勧めるよう言いますが、
秀頼は承知しませんでした。

しかし家康は、
すかさず十八日に阿茶ノ局を
京極忠高の陣へ行かせ、
城中から常高院を呼んで
和睦を勧めさせました。

この結果、
大坂城は和議を受け入れる事となり、
櫓の破却と惣堀を埋める事などを
条件に
一旦、講和が成立しました。




一方、
東軍の包囲も次第に狭められてきており、
十一月三十日には
蜂須賀至鎮は城の南西に当たる
船場の南御堂に陣を移していました。

十二月三日になると
池田忠継も船場に陣を移し、
城内の兵と銃撃戦が行われるなどし、
諸隊はジワジワと城へ迫っていました。

五日になり、
城方では指をくわえて
見てるだけでは能がないから
敵陣に夜襲をかけようという事で
軍議が行われ、
大野治房が銃卒を選んだものの
塙団右衛門と議論となり、
結局夜が明けてしまいました。

この日、
塙団右衛門は先日果たせなかった
夜襲を敢行すべく、
本町橋筋に布陣していた
蜂須賀家の老臣・中村右近(重勝)に
狙いを付け、
銃卒百人を伏兵として
選りすぐった部下の兵二十名と共に
足音を忍ばせて近づきました。



十七日・午前二時 頃に
番兵数人を斬り倒して
喊声(カンセイ)を上げると、
寝込みを襲われた中村隊はうろたえ、
右近も鎧を付ける間もなく
槍を取って奮戦しますが、
ついに討死しました。

急を聞いて
蜂須賀至鎮が加勢の兵を差し向けると、
右近の首を取った塙団右衛門は
兵を収めて退いています。