「小早川隆景は、なぜ秀吉の大返しを 追わなかったのか…」 | 歴史ブログ

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過去の今日はどんな出来事があったのかを記した
「今日の出来事」。

歴史を探究する「歴史探訪」などで構成します。

【小早川隆景は、なぜ秀吉の大返しを
            追わなかったのか】




◾【あえて追撃せず、
   大返しの先を読んでの決断】




「すまぬ……。
  されど、これで毛利は救われる。」

羽柴軍に水攻めを受けていた
備中 高松城主・清水宗治が
自刃を受け入れたと聞き、
隆景は心の中で呟いた。

ところが、
胸を撫で下ろすのも束の間、
信長 討死の報が届く。

退却する羽柴軍を追撃すべしと
怒号する兄・元春。

一方、
隆景の眼には、後の天下が見えていた。




◾【備中 高松城、水攻め】

日差山から北の眼下を眺めると
一里四方にも及ぶ巨大な湖が
できており、
その中心にポツンと
高松城の一部が覗けていた。


「彼奴、何故、下知を聞かぬのじゃ。」

顔を顰め、
小早川隆景は肚裡で吐き捨てた。

「此人、常に危うき戦ひを慎み、
 謀を以て敵を屈せしむる手段を
 宗とし給ふ。」と、
『陰徳太平記』に記されている
隆景は、
毛利元就の三男として誕生し、
9歳の時に竹原・小早川家の
養子となる事が決まり、
12歳の時に同家を継承。

18歳の時に本家の沼田・小早川家を
乗っ取り、当主となった。

天文16年(1547)の
備後・神辺城攻めで初陣を果たし
諸戦場で活躍。


兄の吉川元春ともども
毛利の「両川」として、
毛利本家の輝元を支えている。

天下統一を目前にした
織田信長の中国方面司令官として、
羽柴秀吉が2万余の兵を進めて
諸城を攻略。

清水宗治が守る備中の高松城を
水攻めにしたのは、
天正10年(1582)5月の事であった。





秀吉は足守川を塞き止め、
洪水避けに築かれていた堤防に
普請を加え高松城を人工湖に沈め、
日増しに水位は上昇していた。



「まさか、あの小者が我らを脅かすとはの…」

永禄12年(1569)頃、
都で奉行をしていた秀吉が
毛利氏に対する申次衆にも抜擢され、
隆景が書でのやり取りを開始した時、
秀吉はまだ木下藤吉郎と名乗っていた。

その秀吉が高松城を水攻めという
驚愕の作戦を執っている事に
隆景は愕然とした。

清水宗治からの求めを受け
救援に駆けつけた毛利軍は、
足守川の西、高松城から半里ほど西の
岩崎山に吉川勢、

同山から10町ほど南西の日差山に
小早川勢、

同城から4里ほど南西の猿掛城に
毛利家・当主の輝元が備えた。
総勢1万5千の軍勢である。

「気持ちは分かる、されど……」

毛利軍は羽柴軍を威嚇するが、
秀吉らは挑発に乗らずに
水攻めを続行。

何もせずとも水嵩は増すばかりで
籠城兵は餓死や溺死を待つといった
様相である。

打開策がないので、
隆景は清水宗治に降伏を申し出て
西に退くように下知したが、


宗治は「武士の意地」と撥ね付け、
籠城を続けていた。

清水宗治にすれば、
命を賭けて気概を示すので、
援軍にきた毛利軍も覇気を示して
羽柴軍を追い払ってくれ、
という気持ちであろう。


「気持ちは、痛いほどに分かる。
 されど……。
 毛利の行く末を考えると
 迷惑な話じゃ」
隆景の本音である。

近く、信長が大軍を率いて
参陣するという噂を聞いていた。

信長は3ヵ月前、
一度も鎧に袖を通す事もなく、
戦国最強と謳われた武田家を
滅ぼしている。

羽柴軍だけでも手に余るのに、
敵の総大将と対峙すれば
毛利家の命運に直結する。

既に信長の呼び掛けに応じて
豊後の大友宗麟が兵を挙げ、
背後を脅かされている。
毛利軍は早く帰陣し
備えたいところである。

膠着状態が続く中の6月3日の晩、
秀吉から新たな提案が提示された。

これまで秀吉は、
毛利家に6カ国の割譲を
要求していた(諸説あり)。

これを備中、美作、伯耆の3カ国に
譲歩するが、
清水宗治には切腹させる事で、
一旦、和睦しようという事であった。

隆景は5ヵ国で事を収めようと
交渉を行なわせていた。

これは『小早川家文書』や
『毛利家文書』で確認できる。
それだけに戸惑った。


「妙じゃの。
これまで強硬に6カ国の割譲を
主張していたのに、
何故、有利な羽柴が折れる…?
羽柴の陣に何かあったのか…?」

隆景は秀吉の身辺を探るように
家臣に命じたが、
簡単に近づけるはずもなかった。

「清水殿は切腹に応じたように
 御座います」

奉行筆頭の井上春忠が報せた。

「何と……!?」

驚きが半分、もう半分は安堵であった。

「恵瓊殿が説いた様に御座います」

安国寺恵瓊は
安芸の守護職・武田信重の息子として
生まれ、
父が毛利元就に攻められて
自刃したのちは出家し、
安国寺や都の東福寺で修行し、
毛利家の外交僧となっていた。

「鼻薬でも嗅がされたか」

以前より恵瓊は、
隆景の指示で何度も上洛し、
秀吉と交渉を行なっていた。


折衝の最中、恵瓊は信長と秀吉を、
「信長の代は3年や5年は持ちましょう。」
「来年あたりは公家(殿上人)にも
成るかもしれません。」
「されど、高転びにて仰向けに転ぶと
見受けられます。」
「尚、藤吉郎は、さりとてはの
(なかなか見所のある)者です」
と評している。

何れにしても
清水宗治が応じた以上、
説得して長対峙を続ける必要は
なくなった。



6月4日・巳刻(午前10時頃)、
清水宗治は船上で自刃し
46歳の生涯を閉じた。

籠城していた隆景の家臣、
末近信賀、清水田右衛門、国府市正も
別の船の上で後を追った。


「すまぬ……。
 されど、これで毛利は救われる」

罪悪感の中、
隆景は胸を撫で下ろした。




◾【一世一代の決断】

翌5日、
恵瓊から毛利輝元に事後処理として
清水宗治自刃の報せが届けられた。

輝元、元春、隆景3氏に対して、
秀吉は約束は必ず守りますという 3カ条からなる血判起請文を発し、
撤退準備を始めさせた。

秀吉は堤防を破壊し帰途に就いた。
中国大返しの始まりである。

人工湖の水は濁流と化して流れた。
激流は羽柴軍と毛利軍を見事に
分断した事になる。

羽柴軍が退きにかかり、
直ぐ、紀伊の雑賀衆から猿掛城に
本能寺ノ変の報せが届けられた。

この時、元春と隆景は同城におり、
今後の対応を相談しようとしていた
矢先の事であった。


「騙しおって。
 即座に追い討ちをかけよ‼」

猛将で知られる元春は怒号した。
他の毛利家の重臣も同調する。


「羽柴め、やりおるの。
 やはり、さりとてはの者か、
 と感心している場合ではないの」

隆景も腹立たしい。
とはいえ、元春には断乎、同意できない。

「既に羽柴と起請文を交わした以上、
 これを破棄する事はできぬ」

「筑前(秀吉)めは、
 最初から我らを騙したのじゃ。
 起請文など、ただの紙切れと
 同じじゃ」

唾を飛ばして元春は叫ぶ。

「されど、
 この現状を如何なされる…?
 羽柴は足守川を暴れ川に変えた。
 兵の移動は困難でござる。
 海もまた怪しい限り」

秀吉は村上水軍の
来島通昌を調略しており、
海から円滑に追撃できなくなって
いた。

「山を迂回すればよい」

「主の仇討ちをせんとする兵は強い。
 これを追えば、必死に戦う。
 直ぐに大友と戦わねばならぬ
 我らが、
 無駄に兵を損じる事も御座るまい。
 それに彼奴らは一年中戦ができる」

毛利家は織田家のように
兵農分離をしていないので、
農繁期に出陣できなかった。

「そちは、この屈辱を何とも思わぬのか」

「実を取りましょう。」
「追えば相応の打撃を与えられるが、
 羽柴を討てねば
 羽柴は憎しみの塊となる。」
「さして我らに恨みを持たぬ
 信長にすら、
 ここまで追い詰められたので
 御座る。」
「憎しみを持った羽柴が
 再び兵を進めてくれば、
 此度の比では御座らぬ。」
「明智が信長を討っても、
 主殺しが長く栄えた例は御座らぬ。」
「見事に我らを騙して、
 仇討ちに戻った羽柴らが
 勝利するに違いなし。」

隆景は、一息吐いて続けた。



「ここは恩を売ってやりましょう。」
「上方が纏まるには数年を要するはず。」
「その間、我らは失った地を取り戻し、
 内を固めるが先決。」
「亡き父上(元就)も
 上方に望みを持つなと申されたでは
 御座らぬか。」

憤怒する元春を
隆景は柔らかく宥め、
渋々納得させた。

更に隆景は、
毛利家の旗差物まで貸してやった。

お人好しな行動であるが、
隆景の説得で
毛利軍が追撃しなかった事で
秀吉は山崎ノ合戦で明智軍を破り、
天下取りの契機を掴む事ができた。

後に秀吉は隆景に恩義を感じ、
輝元と隆景は年寄(大老)に
席を列ねる事になる。

毛利は追撃しなかった事で
消耗戦を避けて乱世を生き延び、
幕末の雄藩として
明治維新を達成する事に繋がった。