伊達政宗の実父、「伊達輝宗、落命」 | 歴史ブログ

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~10月8日の出来事~

【伊達政宗の実父、「伊達輝宗 落命」】



天正十三年(1585) 10月8日、
伊達輝宗が降伏を装った
畠山(二本松)義継に拉致され、
義継は追撃した輝宗の子・政宗に
討たれるが、
同時に輝宗も落命する。
享年42歳。




この事件の起こる前年の十月、
政宗は父・輝宗の後を嗣いで
伊達氏十七代当主となりました。

翌月に蘆名氏の傘下にあった
塩松城主・大内定綱が
政宗のもとを訪れ従属する旨を伝えますが、
翌年、早々に蘆名氏の圧力に屈して
翻意した為、
政宗は怒って定綱攻めを行いました。

結局、定綱は城を焼いて
会津の蘆名氏のもとへと逃れますが、
二本松城主の畠山義継の援助があった為、
畠山氏もまた政宗の攻撃対象となりました。

政宗と正面切って対決する力を持たない義継は
降伏を決めますが、
政宗は苛烈な条件を突きつけました。

この事態に義継は、
以前より良好な関係にあった
政宗の父・輝宗に取りなしを頼み、
穏やかな性格だった輝宗は
政宗をなだめたようです。

義継は礼を述べるために
小浜の伊達輝宗の館へやってますが、
ここで事件が起きました。

義継が館を辞す際、
突然刀を抜いて輝宗を拉致したのです。

その時、館を留守にしていた政宗は
急を聞き駆けつけますが、
両名を発見した時には
既に義継領に入ろうとする直前でした。



父を人質に取られているため
何とも手出しが出来ない状況の中、
輝宗は自分もろとも義継を撃てと
命じました。



さすがの政宗も、これには躊躇しますが、
禍根を後に残すなという
再度の強い言葉に意を決し、
父もろとも義継を射殺したと
伝えられます。



これには異説もあり、
逃げ切れないと思った義継が
一刀のもとに輝宗を殺し、
直ぐ様その場で自害したともいいますが、
何れにせよ温厚で人望の厚かった輝宗は、
この日に42歳の生涯を終えました。