春の週末にすべき事

 

 

「春宵一刻値千金」、というのは漢詩の一節で、要するに春の夕刻が、観桜会とかありそうな春酣の、麗らかな季節の黄昏時というかが、素晴らしい風情で、何物にも代えがたい金銀財宝のように思える、と、そういう気分を謳ったものだと思います。

石川五右衛門という人が、春の風景の眺めが素晴らしいのでこの一節を、思わず呟いたという逸話?伝説があって、昔は泥棒にも漢籍の教養があったのだなあ?とか思う。

 

清少納言にも、「香炉峰の雪はいかがあらむ?」と帝に聞かれて、「御簾を」掲げて見た、という多少スノッブな逸話があるが、これも漢文の教養が知識人とかには普遍的だったことを示しているのだろう…

 

杜甫の「春望」という漢詩は、詩聖と呼ばれた詩人の代表作で、だいたい教科書に載っています。対して、李太白こと李白が、”詩仙”で、「酒一斗、詩百篇」と言われる酒豪だったそうです。

 

漢詩とかの古典に詳しいわけではないが、古いそういう典雅で浪漫のある世界には憧れがあります。こういう気風を「尚古」という。…

 

「あんまりにも美しい桜の根元には死体が埋まっている」と、書いたのが「檸檬」で有名な梶井基次郎で、妖しい、妖艶なくらいになまめかしい、”春の象徴”である桜の美を言いえて妙で、名言とされている。

 

芭蕉の俳句には、「さまざまなこと思い出す桜かな」という有名な句があって、なんでもないようですが、静謐な余韻というか?しみじみした感じが桜とか春に似つかわしい気もします。「春愁」という言葉もある。また一年が過ぎて、木々や自然が萌え始めた。再生の春…そのめぐる季節になんだか「来し方行く末」を幻視して、遥かな郷愁のようなアンビバレントな感懐を誰しも覚えるのだろうか?トルストイの「復活」の冒頭にも、長い冬のあとに奇跡のように巡ってきた春の、美しさや喜びをArtisticに描写した箇所があって、ロシア人ならではだなあ、と感動したことあります。

 

クラシックにはヴィヴァルディの「四季」というのがあって、「春」のメロディがよくBGMに使われる。もちろん夏からの季節のそれぞれの旋律もあるのですが、そこは有名でないらしくて、ボクも知らないです。

 

ドビュッシーの、「牧神の午後への前奏曲」というのも、たぶん季節は春という感じで、幻想的な気分に捉われます。ドビュッシーはアートの趨勢に合わせてか?「印象派」と言われているらしいです。曲調は確かに、「音楽」というリズミカルでダイナミックなイメージより、静態的で、一枚の絵のように思えます。ミロとか?シャガールを連想する感じかな?

 

”春”は、春機発動、とか「春の目覚め」とかの、比喩もあって、いろいろと連想することの豊富なワードです。

「我が世の春」とか、だいたいいい意味が多いよな?

 

生きているうちに「我が世の春」の週末婚とか?満喫できたらいいなあw

 

 

 

 

 

 

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