花火の思い出教えて!

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 僕はだいたいが少女趣味というか、星菫派?というのか、(これは死語かな?)キラキラした、美しいものが好き、とそういう嗜好があります。美少女はもとより、綺麗な宝石とか、LEDのおもちゃとか、透明な水晶球、華美な花、春の風景、美しい言葉、…etc,etc
  日常的に短い小説を書くのが習慣になって、4,5年たつが、文章を読んでもらうとだいたい「綺麗」、「美しい」、「素敵」とか言われる。耽美主義とか唯美主義とかいう言葉があって、英語だと Aesthetisism ?とかいう難しい単語になるが、例えば、谷崎潤一郎さんの処女作の「刺青」は耽美主義の嚆矢とされる。(衒学癖もあるのだw) そういう性向は文体の趣味にも表れてくるらしいのです。
 
 「花火」もだから、”非常に美しい”、風情のある夏の風物詩…”儚い、一瞬の華麗”、”もののあわれの美学”…そういうリリカルな捉え方になる。子供だときれいさはわかってもまず「花火を皆でするのが楽しい」となるし、一般的には「ああ、そういうのを夏にすることになっている例のあれか」とか、憧れの人をデートに誘う格好の口実?とかつまりむしろ”社会的な”発想が主になるのかな?
 僕とはだいぶん趣を異にしている。
 こういう世間との齟齬は、いたるところにあって、美的な感覚が鋭敏なゆえに?そういう価値観なので?「人間的な」社会の人事の往来とか、恋愛沙汰とか、政治、経済、そういうものには違和感があって、寧ろ疎んじたくなる。
 俗に「詩人肌」と言いますが、そういうタイプなのかとは思う。実際に時々「アーティストタイプ」とかよっぽどに褒められたりもするが、まあ幻想を抱かれているだけかとは思う…
 推理小説で、「社会派」と言われるのは代表的なのが松本清張とかで、読んでみるとわかるけれど徹頭徹尾に虚飾というか、アートな、美的な嗜好的なものを排していて、実務的というかカネだのオンナだの出世欲だの世俗の垢に塗れた話ばかりで出来ている。偶に、芸術やら美術が筋立ての小道具になる時にはだいたい冷笑的な、滑稽な扱われ方をしている。それも現実への異化効果を狙っている感じもあるが、まあ自分の嗜好とは逆の世界で、都会の塵埃でsmoggyな雑踏に疲れ果てた人々ばかりの描写で、グレーで干涸びた、「死の砂漠」をひたすらサディスティックに強調しているみたいに思えるw 結局は底にあるのはだが、社会批判なのだろうが。
 
 で、結局自分は「社会」とは相いれない、どうしても Alienとなってしまうという、そういう運命なのかとも思う。
 
 井上靖さんの短編小説に「ある偽作家の生涯」というのがあって、”桔梗色の打ち上げ花火”を作り出すという”夢”?に憑りつかれる人物が出てくる。なぜそんな観念を抱くに至ったのかは不明だが、要するにその男(もともとは画家なのだが)には、「それがこの世の中で一番美しいもの」と思えたのに違いない。
 ”偽作家”にしかなれなかった画家は、それゆえに?そういう「刹那の美」に一生をかけた訳である。
 だがその情熱は他人には理解されなかった。
 ”偽作家”の話を聞いた、小説の語り手の妻は、「だって、桔梗色の花火が夜空に咲くんでしょう?おおいやだ」と”いかにも堪らないというっように顔をしかめた”と、短編の結びはそういう話になっている。
 世の中に理解されない芸術的な衝動…しかしそれは当人には紛れもなく Reality を持っているのだ。
 
 それにしても「線香花火」を作った職人というのは天才だなあ。