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 何度もお目汚し致します。利寺志高校3年、文藝部所属の<紫文乃(むらさき・ふみの)>です。文藝部の「芸」を、某出版社と同じに旧字体に変えました。やはりこの方が品格とか由緒の正しさとかが漂っていていいものですね。同人誌の「土筆」も、これは「つくし」という植物の名前ですが、順調に発行できています。この間まで土筆だったのが、今はスギナになっています。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」と、よく言いますが、部員はそれぞれに思春期の「シュトルム・ドランク」の日々を満喫して、切磋琢磨して、成長の日々です。青春期にどういう時間を過ごすかで以降の人生がほぼ規定されてしまうと、そういうことを仰る先生もいて、否が応にも時間を無駄にしてはいけないな、と自戒しています。私も様々なビルドゥンクス・ロマン、教養小説とかを読んで、「自己形成」に悩んでいる日々です。日本語では普通の名詞でも英語には該当する単語が無い、というのがあって、「青春」もそうですね?某作家の「Sweet bird of Youth」という戯曲が「青春の甘き小鳥」と翻訳されていたけど、こういう例には事欠かない…バラエティに富んでいて、ポエティックな、「言霊の咲きほう国」の、「豊葦原瑞穂の国」の母国語を大事にしたいな、と思います。
 
 文学はつまり「言語芸術」で、本来はコミュニケーションのツールである”ことば”の、美的な側面に着目して、ポエティックでレトリカルな、言わば「無駄」な部分?を強調
したものかもしれない。「美文」を疎んじるという傾向はあって、でもそれは「美」というものへの価値観の相違だと思う。シャンデリアとかサン・キャッチャーのキラキラした、無意味な儚い一瞬の美にどうしようもなくなにか「永遠」や「この世の真実」を見てしまう…文学者とか、藝術家というのは本来はそういう夢想家ぽい人種なのかもと思います…
 
 私はテレビはあまり観なくて、ニュースとか、朝の時報代わりに観るくらいですが、「クイズ番組」は例外です。
 いろいろにクイズ番組はあって、さまざまな問題が出されているけれども、こういうクイズもとどのつまりは「コミュニケーション」?というか記号によって伝わるか伝わらないかというそういう営為だという気がする。
 そもそも問題とか問題解決というのはあらかじめにある出題者の「答え」をコミュニケーションして割り出す作業だから、「わかり得る」ようにはできているが、知識の有無やら理解力やらで成否や時間の優劣が生じる。
 当然にその一瞬のせめぎ合いに今まで生きてきたすべての、ほぼ全存在を賭けた?問題解決能力が問われる。
 クイズの醍醐味はその一瞬のとてつもないリアリティ、シリアスさと真剣味だと思う。ブー!、とピンポン!では雲泥の差で、スポーツと同様に勝者と敗者がはっきり出るし、一切に容赦も斟酌もされない。(ただし、八百長が無いとは限らないが?)
 
 この「頭脳のオリンピック?」には凡百のバラエティや間延びしたトークにはない、ある人間ならではの「真実」がある。クイズこそが寧ろ多分テレビの「王道」なのではないか?
 
 私はそんな風に思うんです…
 
 で、その日も「京大王」というクイズを一人で観ていたんです。
 これは、日本最高峰の、東大と京大のライバル校が、クイズで対決するという番組で、現役生やOB、OG入り乱れて、賞金100万円を奪い合うわけです。で、この日のサブタイトルは「レディス・マッチ!日本語王決定!」となっていて、出演者は全員女性でした。この番組のレベルなら「日本語王」に真にふさわしいのは私・紫文乃ではないかと常々密かに自負している私は「腕に覚え在り」と「腕撫す」思いでした。
 
 60分の番組が、三部構成になっていて、第一部が「漢字クロスワード」、二部が「ことわざシャウト」、最後が「四字熟語はてな?」で、出演者はおなじみの現役東大京大生、タレント、コメンテーター、アナウンサー、文化人…etcだった。
 
<続く>