スキー滑れる?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

 
雪国に5年も住んでいたのに、
 
スキーに行ったのは一遍きりです。
 
川端康成「雪国」の冒頭は、
 
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。
 
夜の底が白くなった。」
 
というもので、井上ひさしは、
 
この文章が「エントロピーが小さい」と評していた。
 
冗長度が低いという意味で、非常に密度が濃いというか、
 
そういうニュアンスだと思う。
 
一度読んで、何だかわかりにくくて、読み返してみる。
 
というと味わい深いという感じになる、とか
 
そういう余韻が残る文章というような表現かと思う。
 
文学というのはつまり、文章の芸術で、
 
筆者の言語感覚とか、語彙を使いこなす能力とかが、大事であって、
 
内容は二の次ではないか?とそういう気もする。
 
人間の生活というのは十年一日のごとくの繰り返しで、
 
例えば俳句や短歌というのはそういう日常の中の発見で、
 
平凡な日常が俳句に昇華されることで、珠玉のような一瞬になる。
 
それが文学のマジックである。人生を散文的な退屈なものではなく、
 
灰色のルーチンワークの繰り返しではなく、
 
原色の鮮やかな空間にすり替えてくれる、それが文学というものの効用である。
 
単調な雑音めいた現実の空間を、交響曲の鳴り響く祝祭的な空間に変えてくれる、
 
良質の文学に触れたときには、誰しもそうした異化の感覚を体験すると思う。
 
それが文学的な読書の醍醐味です。
 
だから僕は本当は外国の翻訳文学とかは、
 
原作の心を本当には正しく再現できていないので、
 
どうも隔靴搔痒?みたいになっているのではないかと思うのです。
 
本当に文学を愛好している人は原書で読んだりしますね?
 
文章というのはお飾りみたいなもので、
 
ストーリーが本命である、とそういう本もありますが、
 
その場合でも文章が上手でないと何だか読むに堪えない代物になりはしないか。
 
中国の科挙、だと詩文の能力が問われる試験で、
 
役人になれるのは文章がうまい人であった。
 
そういう古き良き時代みたいな、牧歌的な感覚が、
 
僕という人の個性だと何だか懐かしいような感じがするのです・・・
 
今時には流行らなくてもネ(*^-^*)