昨年の御盆に宮崎の曾祖母が残していた手紙を発見しいくつか解読を行いましたが、今年のお正月にさらに違う場所から同時期の手紙類が発見されました。

今回発見されたのは、僕の高祖父の弥三郎に関係する文書群のようであり、その中に東京に引っ越しした曾祖母いゑから、義父である弥三郎に宛てた手紙があったので解読してみました。


東京で単身赴任をしていた曾祖父元春のもとに引っ越ししたいゑは、大正11年に初めての子供を出産したようですが、手紙の内容から死産してしまったことが分かりました。

今も健在の祖母が大正13年生まれなのでその2年前のことになります。

そういう話は聞いたことがなかったのでびっくりしました。

子供が生きて生まれてこなかったことがとても悲しかったことが文章から伝わってきました。





大正11(1922)年1月24日

いゑ(曾祖母 東京市外高田町雑司ケ谷水)→弥三郎(高祖父 宮崎郡大淀町)



明けまして御芽出度御座います。

大正十年も夢の間に過ぎて早11年度の春を迎へ、また春とは只名のみにて未だ寒気きびしく、東京は毎日のように雪降りで手も足も切れるようで御座います。

おなつかしき御父様は、この耐え難かりし寒さを如何に御暮し遊ばされますか。

次に私事、出産この方至極大元気にて無事に暮して居りますから何卒御安心下さいませ。

私もこんなに早々出産しようとは夢にも思わぬ事ですから、出産する二日前十五日に神田錦町三丁目にある神様に御参りしたのです。

その日は折悪くも電車は満員で、行くも帰るも立ち通しで有ったのです

その電車に乗ったのが障ったのか、十六日から腹がいたくなって十七日にはかくなる事になったので御座います。

だからきっと電車に乗ったのが障ったのだろうと思います。

お互い待ちに待っていた子供が死んで生まれたものですから、ほんとうにがっかり致しました。

昔から七月子は育つとも八月子は育たぬという事をいって居りますから、子供の事はあきらめては居りますけれ共、乳が張って来るとすぐ子供の事を思いだし、嗚呼子供が生きて居ったらこんなにして絞って捨てなくてもよいものにと思って、如何してもあきらめる事が出来ません。

産後は別に変った事は御座いませんでしたが、三日目から顔・手の首から先・腰から下にむくみが来て非常に腫れましたけれども、別に医者にも罹らず中将湯という薬にて日に日に腫もへり、もうすっかりなおりましたから御安心下さいませ。

それから子供を骨にしたのを箱の出来次第御送り致しますから、何卒宜しく御頼み致ます。

聞きたき事山々なれど今はこれにて失礼致します。

先ずは時節柄御身御大切に。

                     かしこ



1月24日                 いゑ

                       父上様