太郎老人の記録 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

野村貞秀さんご夫妻の宝筐印塔及び、大石定久公の逆修自然石の墓塔記録。



     令和三年四月六日(清水中世史研究所)の記録です。


  

         戌   

       寛永五    年 

         辰

 

   (□   の部分判読出来ず 夢か?) 貞秀氏は、他の地に埋葬されたので、夢と推定?     

     為岩峰光金禅定門

      (十二)月拾八日

 

の部分は判読出来ず 極か?) 記録に十二月十日とあるので「極月」と推定?

 

野村喜兵衛貞秀の宝筐印塔です。

 

野村豊後守高貞―野村左衛門尉貞常―野村喜兵衛貞秀

 

新編武蔵風土記稿巻之百十四 多摩郡之

二十六 第六巻(一二二)

 

舊家 百姓勘右衛門 野村を氏とす、家の一軸その餘舊記を蔵せり、これを閲するに其遠祖は、宇多天皇第八皇子敦實親王より十六代、六角大膳大夫満經の二男、野村左衛門大夫久綱より四代の孫、豊後守高貞が後裔なり、高貞故あって江州を去て關東に下り、山角伊豫守に就て北條氏康が扶助を乞しに、永禄元年五月高麗郡上我野に於て、五十貫の地を宛行はれて、使番をつとむ、其後國府臺合戦の時、火砲にあたり疵を被り、廃人となりかば、澤井村大平と云所に隠居し、七十五或は八十五歳歿すと、法謚雲渓道龍庵主と號す、其子左衛門尉貞常も父の跡を繼て、使番を務て毎度働あり、天正十八年六月八王子城籠城の時、近藤出羽守助實が手に屬して、山下の陣にて近藤と共に討死し、屍は由井の心原院に埋葬し、月窓道東と法謚す、貞常が子喜兵衛貞秀も使番を勤しが、此時父と共に討死を心がけしが、父頻に制止けるまゝ圍みを出て、雨間川の邊まで落けるに、家人戸泉青山小山小河等に出合て、爾々の事共語るまに、南の方に火の手見えければ、今こそ貞常が最期ならんと、主従馬を變べて見やりなくなく歸しと云、後年下山八幡の社内へ納めし貞秀が、茜の布衣近年までもありけるが蠧朽し畢んぬと、扨又氏照自殺小田原も落去し、關東御分國となりて、大久保石見守御代官たれば、もし召出さん品もあらばうたてしと、蟄居し自らおさ人のごとくにて、寛永五年十二月七十五歳にて没す、悦翁道壽と法號す、これより子孫民間に下れりと云、左衛門尉が、働の場所附書あり、これは大久保石見守が、尋によりて、喜兵衛より按見にいれしうつしなりといふ、左の如し、

一 小山馬路口にて、結城ヨリ働之時、關隼人・宮寺四郎左衛門・神田與左左衛門と立合、首壹ツ高名仕候事、

一 新田へ働之時、於其表小幡主殿助・井上七兵衛と立合、首壹ツ高名仕、鑓も仕候事、

一 小山木澤口にて、佐竹對陣之時、大罷通候處を、小山より石原主膳門を開らき、大極を追崩し申候時、主膳立合、首壹ツ高名仕候事、

一 太田江働之時、三四ヵ之内、初日ハ宿城を被成、初日之時桑島萬喜と立立合走廻り仕候、二日目ハ城根小屋根小屋迄御取之時、小幡玄蕃介・田邊清右衛門と立合走廻り仕候事、

一 佐野小野寺谷にて働之時、山中勘解由・岸野重郎兵衛・高瓦玄蕃、其外貮拾騎にて鑓御座候時、敵跡先ヨリ取巻申候ニ付、中山勘解由指圖を以て、馬を入追崩引上申候事、

一 皆川江働之時、富田大中寺之下にて、金子十兵衛討死に及候所を、拙者馬を入、十兵衛を助ケ申候事、

 一 二年目働之時、彼表江敵出向申候時、關山城守、同伊賀守・拙者兩三人

  馬を出し、追崩申候事、

一 皆川働之時、大平にて平山大學介・關山城守・同隼人立合申、其場之敵を追崩申候事、

一 結城より働之時、小山四ヵ布口にて、大平江敵掛申候間、岸野重郎兵衛、宮崎助兵衛・我等三にて追拂申候事、

一 長尾輝虎寄候時、石巻下總守と、私ニ物見被申付、御注進之時節、思召ニ叶御稱婪ニ逢候事、

一 小山清水にて、皆川衆掛合之時、加藤駿河守・岸野重郎兵衛と立合申、敵を追崩殊ニ走廻リ付事、

一 伊豆國土倉江働之時、城下之橋江出張申候ニ付而、金子十兵衛と二騎馬を入、敵を追崩申候、是ハ感状所仕候事、 

          

 

           

          寛永九   年

           

      の部分判読出来ず 夢か?)貞秀氏妻女も、此の地に埋葬されて居ないので夢と推定

 

            為 学室貞参    

            (不明)禅定尼   

            (不明)拾月六日 

 

               (□の部分判読出来ず)

 

  野村喜兵衛貞秀が妻女の宝筐院印塔です。

 

     貞常の屍を心源院に埋葬したと書かれています。墓塔等は無いのですが、貞常の法謚等に就いては、一段上の部分に判読できない處に刻されているのではないのかと思われます。推定ですが?

 

      天正十八年六月

       月窓道東

       二十三日

      八王子城にて討死仕り候

 

     貞秀の妻女の宝筐院にも判明部分に記録が、刻されているのではと思われます?

     昨年の五月頃に、心源院を訪れました。其時に、古い宝筐印塔に気が付き調べようと何度か足を運んだのですが、貞秀さん(妻女)の宝筐印塔に刻された法謚の部分についての判読は出来たのです。貞秀さんの法謚に就いては、手で擦りもしました。スマホやアイパッドに加え撮影した画像をパソコンやアイパッドに保存し、画像を何度も拡大しながら判読を試みたのです。しかし、今年の四月四日に娘の電動自転車を借り、お寺を訪れました。今回は、スマホにサーモンアプリとX線アプリを入れて往きましたが、サーモンアプリの画像は、消えていました。X線アプリは、上手く使えそうになく削除しました。宝筐印塔や近くの墓に新しい花が、手向けられていたのです。手前の自然石の墓塔の花が、枯れそうに弱っていたのです。お水を注ぎ、貞秀さんと妻女の五輪塔へお水を架けました。貞秀さんの宝筐印塔の不明な処へお水を架けた、その瞬間にアット驚く出来事が起こったのです。不明であった部分に刻された法謚が

鮮明に浮かび上がったのです。

(そうなのかぁ、この宝筐印塔の貞秀さんは、天水で無く、私にお水を架けて欲しかったのかぁ)都合三度もお水を注ぎました。この時は、過って唱えたことが有る【延命十句観音経】   の一部分を唱えて居りました。

     清水中世史研究所の祭主として、八王子城・戸取山・三増峠・新井城等の合戦で討死去れた【武者・ご婦人・子供たち】の人々への想いを朝夕忘れずに過ごしています。

 私は、北條氏照公が、築城した郭内に現在も住み、尚且つ生まれ育ったのです。私の母方の先祖で「志村将監・新井隼人正・祖父(勘蔵)実家に所縁の中嶌姓でも討死をしている一族の人々が、いるのです」(貞常さんが、息子を討死させたく無い、無事に生き延びて欲しいとの強い願い⁉︎や貞秀・主従が主人(貞常)への情愛の強さに書き写しながら、瞼を濡らしてしまいました‼️我らの強い思いが、是非共伝えて下さいお願いしますと【五〇〇年以上】の時空を超え、心源院の宝筐印塔へと私を引き寄せ導いたと思うのです。

  時空(ルイ・類の物語から更へ)』の自分史も兼ね「エッセイ」としての本を出版するのが、私の就活と思って居ります。 


自然石の墓塔についての考察です。不明な部分が、有りますので解読は、難しい様に思われます。解読できた箇所を、記載致します。

   

          瀧山城主⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎(天文十八年二月七日)

                  ⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎(永厳道俊)

                     ⬛︎(當)山開⬛︎(基)⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎(大石源左衛門尉)

                      ⬛︎(癸)

              逆修寛文⬛︎(三)年⬛︎(二)⬛︎(七)日⬛︎⬛︎(薨去)

                      ⬛︎(卯)


一番下の基壇に「地」と読めます。


 推定される部分についての考察ですが、⬛︎(當)山と刻されておりますので、寛文年中の心源院様の御住職によって建てられた、逆修の墓塔と思われます。最初に刻印された(天文十八年二月七日)によって、逆修墓塔の没年を、永林寺の大石定久公の墓塔より推測して同じ年月としました。

 當山歴住大和尚誌には、次の様に刻されています。

 

 十一世 隔翁貫徹大和尚 寛文五年五月十日

 十三世 日嶺存白大和尚 寛文十一年十月一日  

 

 お寺の御住職さんの墓所の手前にもお墓が、有ってのです。

御住職の墓所を見つける前に何故か、その前を通り、大きな墓塔に気がつきました。其の墓石には、寛文の年号が刻されて居たのです。近寄って、写真を撮影しました。どうも気になるので、電話して、お聞きしました。「開基さんの墓所です」と教えて頂きました。開基さんとは、特にお寺へ協力された人々の墓所と判りました。

    寛文⬜︎(三)年⬜︎⬜︎(癸卯)夭

  庄人院殿單寅榮種居士

    八月二十七日

と刻されてていると推定出来ます。もしも、此の方の(夭)年に合わせて逆修されたので有れば、尚更にご縁があるのだと思います。

此のお寺の開山は、大石源左衛門尉(大石遠江守定久)公です。


 庄人と書かれて居ますので、田舎の庄屋と理解すると此の心原院さんの檀家で、庄屋を勤めた方となります。

 私の母方の先祖には、高祖父の志村兵四郎が居ります。判七、カサンキョウ(上境の隠居のと解釈して居ます)カサンキョウは、志村本家の当主と思えます。志村の本家は、中宿の庄屋を勤めてた家なのです。しかし、何らかの理由で隠居させられたので有れば?墓石が、質素なものになっているのでしょうネェ?田舎の庄屋さんの方とは、平四郎=兵四郎の名前繋がりの他にも隠された(魂の繋がり)があるのカァ⁉︎(太郎老人の蛇足・駄測・早くトチリ)


農家商家の隠居の条件とは、

1]子が一人前となるなどの条件が整い、家業を相続することによって可能となった。

2]家督を譲られた子は隠居した親に住まいとなる隠居所や耕作地を与え、自活できなくなったときには扶養する義務があった。また、農村では隠居することで公共事業への参加の義務が免除される仕組みが合った。(ウキペディアからの引用)


 私の先祖は、宗関寺の新井家に「木曽義仲之孫新井和泉守源義寛」と刻されて居ます。新井家は、私の母方の曽祖母(新井ヨシ)なのです。志村嘉十郎のと婚姻して志村ヨシとなりました。その長女が、志村ヤスで、母タツが志村勘蔵の長女なのです。勘蔵は、中島家から養子なのです。志村タツは、清水清正と婚姻しました。私は、清正の長男です(男と女の双子)。清水清正は、板橋に戸籍が有りました。祖父清水石太郎は、富山県富山市五福村一番地に戸籍が有りました。曽祖父の清水清兵衛の戸籍が、五福村にありますが、それ以前の清水家に就いて調べてたのですが、不明です。

 自然石の墓塔は、四月六日に撮影した画像から、総て判読出来ました。⬛︎にいては、永林寺の大石定久公の墓塔を参考に推定致しました。

  大石定久公は、延徳三年三月二十三日(1491・⒌1)生で天文18年・107日没(1549•10•27)とされています。

  永林寺を訪れて、撮影した時なのですが、天に不思議な雲が現れてて居たのです。彩雲又は、龍神様の形の小さな雲のが連なって浮かんだのです。そして四月四日に野村貞秀さんの宝筐印塔へお水を掛けた時に浮かび上がった瞬間に浮かび上がった刻印された法謚と四月六日の午後二時過ぎに自然石の墓塔を訪れて、光線で浮かび上がっていた逆修の法謚を見た時なのです。三度の不思議な体験でした。

 神仏先祖様のお導きに深く感謝致します。清水中世史研究所 主宰清水太郎(令和三年四月十八日)