永観(ようかん) | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

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永観 えいかん 長元六年(一〇三三)~天永二年(一一一一)〈ようかん〉とも読む。院政期浄土教の代表的な人物。父は文章博士源国経。十一歳のとき禅林寺の深観に師事。翌年東大寺で具足戒を受け、有慶・顕真に三論を学び諸宗を兼修する。早くより念仏の行をはじめ、三十代で東大寺の別所である山城国相楽郡の光明寺に隠棲して念仏を専らにする。延久四年(一〇七二)、四十歳で禅林寺に帰住。康和二年(一一〇〇)より三年間東大寺別当を勤めたほかは、称名念仏と衆生教化・福祉活動を通じて浄土教の流布に努め、法然のも大きな影響を与えている。主著に『往生拾因』があり、その主張を実践化した往生講の作法として『往生講式』を製作している。なお、禅林寺は彼の名をとり〈永観堂〉と通称される。

 永観堂禅林寺には有名な「見返り阿弥陀如来像」がある。この寺の本尊である。阿弥陀仏が自分の左肩越しに後ろを振り返っておられる珍しいポーズの造像である。臨終の際に阿弥陀が来迎して極楽浄土にいざなう時に、間違いなく後をついてこられるか振り返るという慈愛に満ちた姿をさし示すともいわれている。一方、禅林寺の阿弥陀仏像には次のような伝説がある。

 ある夜、永観は、須弥檀の周りを念仏行道していた。ふと気がつくと、自分を先導する影がある。それは、まぎれもなくご本尊の阿弥陀仏である。永観は驚いて立ちすくむ。すると阿弥陀仏が後ろをふりむいて、「永観おそし」と言われた。寺伝によれば永保二年(一〇八二)二月十五日のことであるという。その瞬間の阿弥陀仏の姿を刻んだのがこの「見返り阿弥陀如来像」とある。しかし、永観が東大寺を去る時に、如来堂の阿弥陀仏が永観の夢枕に立たれて、「そなたが禅林寺に帰るなら、わたしもついて行く」と告げられ、永観が禅林寺に背負い帰る時に、東大寺の僧達がこの阿弥陀如来像を奪い帰さんとしたが、どうしても永観の背を離れなかった。東大寺の僧達もあきらめたという。この阿弥陀仏はよほど永観が好きであったのであろう。一説によると、永観は毎日一万遍、後には六万遍の念仏を唱えたという。その結果、晩年には舌も乾き喉も涸れて声が出なくなった。それで仕方なく、最後には観想念仏に変えたという。東大寺の阿弥陀如来像が「見返り阿弥陀如来像」であったとはおもわれない。

阿弥陀仏と永観とは深い縁でむすばれていた。阿弥陀仏と永観とが「一心同体」になっていたのである。親子のつながりにも似た深い愛情の絆、これが浄土門の仏教が形成される過程には必要であつた。私事であるが、母方のこともあり曹洞宗に宗旨替えしたが、父方は富山の門徒である。父の兄が「南無阿弥陀仏」と唱える声が「なんまいだ」と私にはきこえた。永観と阿弥陀仏の話については、本稿作成以前に深く感動し永観について資料を集めていたが、覚鑁が永観に影響を受けているということまでは知らずにいた。ちなみに真言宗の古義と新義を分ける分岐点にいたのが覚鑁である。何かの縁であろうか、私にとって弥陀は近しく感じるのである。
(清水中世史研究所からの記事の再掲です)