五日市広徳寺 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2010年2月18日 (木)

五日市広徳寺

 広徳寺はあきる野市小和田234番地にある寺です。境内は五日市盆地西縁の秋川西岸の山麓にあり、地勢的には五日市盆地入口の秋川左岸にあり、建久二年(1191)創建の真言宗大悲願寺と対峙する位置にあります。臨済宗龍角山広徳寺は、応安六年(1373)開基の正應了受居士によって創立され、鎌倉建長寺七十世心源希微禅師を講じて開山したと伝えられている。天文年間(1532~1555)に北条氏康によって中興され、江戸時代には幕府から四十石の朱印状が与えられ、約一万二千坪の境内地を保有した。現在の堂宇は、18~19世紀に再興された禅宗伽藍を中心に、総門の全面と北側に土塁や貯水池などの遺構が残っている。
 『武蔵名勝図会』には広徳寺、同領同郡小和田村にあり。この寺の古文書に「由井之広徳寺」とあれば、古えは由井郷の内なり。これより秋川向こうの辺までを「由井之深沢山」とも見えけれども、中古以来は小宮領秋留郷とす。
 林檎 この境内は林檎多く、味わいもまた佳なり。江戸神田へ出す。「広徳寺りんご」とて、その名を唄うとある。 現在、八王子市美山町から広徳寺に続く道は通行できないが、この道は鎌倉古道である。恩方地区には佐野川往還が通じており、中世はこの道が八王子と上野原を結ぶ重要な交通手段であった。広徳寺は戦略重要な位置を成していたから、寺には貴重な古文書が残されている。
      古文書(植田孟縉著『武蔵名勝図会』慶友社刊による)
 
     寺領之書立
 戸津原、深沢、中野、同所、窪、押楯、須賀尾、平井之
 内 小和田以上九ヶ所
 右書立之分、不可有相違。年貢之員数者、注本帳者也。
 仍如件
     天文廿(1551)辛亥九月六日
                          (大石定久なり)
                   真月斎 道 俊(花押)
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 寺中、門前共ニ棟別之事指置畢。但家数之小日記有之。
 向後他郷之者、至干門前ニ集者、可為曲事候。仍如件
     (北条虎之朱印)
     弘治三年(1557)丁巳十一月廿七日
                   狩野 大膳亮
                            奉行
       広徳寺        庄 式部少輔
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  由井之広徳寺領、深沢之山萱之事、寺家為修理立置
 候。於深沢かや刈取者之者、可処罪科候。堅可有成敗
 者也。仍如件
     (北条虎之朱印)     狩野 又四郎 奉行
    弘治三丁巳七月四日
          広徳寺
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        制札
 右広徳寺寺山、向後立山ニ被仰付候。厳密ニ可相立旨、
 被仰出者也。仍如件
     丙戌六月廿八日     中島 大蔵丞 奉行
        (天正十六年か)
        広徳寺
           寺山
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【真月斎道俊】源左衛門・入道道俊。真月斎か。定重の嫡男。北条氏綱・氏康に属した国衆。大永五年(1525)十二月十三日淨福寺再棟札銘(淨福寺所蔵・福生市史資料編中世寺社九八)には淨福寺(東・八王子市)の再建に「大旦那大石源左衛門入道道俊並子息憲重」等が中心となって工事を行った。『新編相模』鎌倉郡雪下(神・鎌倉市)の鶴岡八幡宮の条には什器物の一つに香合一つがあり底には「天文三年(1534)甲午五月一日定久」と銘文がみられる。もしくは『快元』天文二年九日条には三田氏や大石は募縁に応じ、大石以月斎も募には了承し馬や太刀を贈ったとある人と同一人か。天文十一年二月十五日大石道俊書状写(武州文書・二〇五)では北野天満天神社(埼・所沢市)の神主職を栗原氏に安堵した。武蔵国守護代として神主職の任命権を大石氏が保持していたことを知る。天文十二年七月朔日大石道俊判物(長念寺文書・二三二)では武蔵国白子(埼・飯能市)の長念寺領の年貢について保証した。天文十七年五月八日大石道俊書状写(佐野家蔵文書・三三四)では小野田新右衛門尉に武蔵国由来(八王子市)内の別所谷・堀之内分の手作地を安堵した。「道俊(花押)」と署名。天文十八年三月七日武田晴信書状(玉英堂稀覯本書目二一二号四七九一)では武田信玄が大石真月斎に去年七月に信濃国の村上義清の逆心によって出馬し勝利を得た事などを報告し北条氏康との仲介を道俊に依頼した。氏康と道俊が親密であったことを知る。同年カ七月二十一日北条氏康書状(淨法寺文書・三五二)では松山城(埼・吉見町)の普請を秋中に完了しないと敵(武田信玄ヵ)に攻略されると道俊に注意し、この頃には道俊は松山城に在城したか。また伊豆諸島に漂着した船の積荷を売却して分国中の大社の修造費用として配分しているが相模国の二宮の六所宮(神・大磯町)にも配分しており、その事を道俊に知らせている事は守護代として守護国の一宮・二宮など大社造営の権限を北条氏が道俊に認めていた事を示す。天文二十年九月六日北条家広徳寺領書立(広徳寺文書・四〇〇)では広徳寺に寺領九ヵ所を寄進し、文書の袖には北条氏の虎朱印の証判を据え、日付下には「真月斎道俊(花押)」と署名。この頃には大石領は次第に北条氏の支配するところとなった。天文二十一年八月十九日大石道俊判物(熊野神社文書・四一八)では武蔵国案下(八王子市)の熊野宮禰宜職を彦次郎に安堵し居屋敷分として二〇〇文の地を与える。この頃に養子の綱周(憲重)に家督を譲り隠居したか。弘治元年(1555)夏に結城政勝が小田原城に滞在して大石綱周にあっており、大石氏への氏照(藤菊丸)の養子問題が話し合われたと思われる。年未詳六月四日大石道俊書状写(鈴木文書・四〇八六)では相模国座間(神・座間市)の鍛冶職鈴木又四郎に大石氏に属して座間に居住し、方々の鍛冶を集めて御用を務める様に指示する。年未詳十一月九日大石道俊書状写(新編武蔵・四〇八七)には武蔵国入間郡北野宮(所沢市)の神主職を栗原氏に前々の如く安堵した。『新編武蔵』多摩郡上恩方村(八王子市)皎月院の条には開基は大石道俊で法名は皎月院英岩道俊とある。
【狩野大膳亮】泰光 飛騨守。狩野介の一族。北条氏康・氏政の家臣。小田原城の奉行・評定衆の筆頭。小田原城の御馬廻役を統括する官僚機構の中心人物。天文二十四年(1555)二月二十三日北条家朱印状写(相州文書・四八〇)では舞々天十郎大夫に陰陽師からの役銭徴収の証拠を提出させた。奉者は狩野介・泰光等の四人。狩野介と狩野泰光が隣接して連署しており一族関係と推定。のち北条氏照文書に多出する狩野一庵(宗円)と泰光は同一人物であろうとの説がある。永禄十二年(1569)になると北条氏照の朱印状には狩野一庵宗円が奉者として登場してくるか事から狩野飛騨守泰光は古河公方との関係から小田原城の家臣から古河公方の後見役となる氏照の家臣に転出し入道して一庵宗円と号して氏照の重臣として活躍したものと推定。
【狩野又四郎】弘治三年の広徳寺に残る二通の文書の月日が近いことから狩野大膳亮と同一人物と思われる。
【庄式部少輔】庄資直(すけなお)式部少輔・左近将監。北条氏康・氏政の家臣。奉者を務める。天文十八年(1549)十一月九日北条氏康判物写(諸家文書・三六〇)では虎千代康正に相模国小野郷(神・厚木市)を安堵し左近将監女子に配当の時には虎千代の配慮によるとした。弘治三年十一月二十七日北条家朱印状(広徳寺・出雲祝神社・高安寺・高乗寺・西連寺各文書・五六二~六)では北条氏康は武蔵国多摩郡の社寺の棟別銭を免除して寺社領を掌握した。奉者は広徳寺(東・あきる野市)・出雲祝神社(埼・入間市)・高安寺(東・府中市)のは狩野泰光・庄式部少輔。永禄二年(1559)の『役帳』御馬廻衆に庄式部少輔と見え、合計知行役高は三十三貫文。
【中島大蔵丞】中島氏は清和源氏義光流の小笠原氏族の出という。『寛政譜』巻二〇一に中島系図を載せ、筑後守盛信が北条氏直から氏照に仕え、七五歳で死去、法名は常覚。嫡男大蔵盛直も北条氏照ニ仕えた。戦国期は盛信ー盛直ー盛昌と続く。中島大蔵丞は盛信の嫡男。
*古文書の人物については下山冶久編『後北条氏家臣団(人名事典)』東京堂出版を参考にしました。
*広徳寺領深沢山の「刈萱」は江戸時代にも争論になった。菊池山哉著『東国の歴史と史跡』ではこの深沢山を八王子城のあった深沢山と混同されているので、注意されたい。
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