2009年11月 1日 (日)
日奉氏と武蔵四牧(石川牧・小川牧・由比牧・立野牧)の成立
日奉氏は古代品部(しなべ)の一つで太陽祭祀(さいし)を司った日奉部に起源を持つ氏族であり、国衙(府中)西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたとされている。日奉部の太陽祭祀とは、太陽の光のもっとも弱った冬至などの冬の季節に日炊(ひたき)の行事を行い、火の力で太陽の力を復活させようとしたものだろうという。
日奉氏の祭神は土淵郷の日ノ宮権現(東京都日野市栄町にある日野宮神社)で、ここを中心に祭祀集団の日奉氏一族が勢力を張っていたといわれている。そして、この地域を拠点とし、在庁官人として勢力を広げ、鎌倉街道の以西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばしたので、多西ないし西を称するようになったという。武蔵七党系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂」)は天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を先祖とし高魂命(たかむすびのみこと)を日奉氏祖神とし、中興の祖を武蔵守宗頼(むねより)としている。宗頼の子宗親(むねちか)は内舎人(うどねり)。宗親にに二子あり。長男宗忠は日内太郎あるいは西内大夫という。二男の宗弘(むねひろ)は二庁官で由井別当とも称し、京都に奉公している。
日奉氏小川氏系図では藤原道頼(山井大納言)の子を宗頼とし、宰相西祖としている。また宗頼を日野宰相、武蔵国に流されるとしている。しかし尊卑分脈には、藤原道頼の子に宗頼はいない。『姓氏家系大辞典』(太田亮)は武蔵国造一族であろうという。
道頼は藤原道隆の長男として生まれたが、母親の身分が低かった事から異母弟藤原伊周よりも低く置かれていた。永延三年(989)権中納言。正暦四年(993)八月二十八日権大納言。長徳元年(995)に大流行した赤斑瘡に倒れて25歳の若さで薨去する。『大鏡』によると、まるで絵から抜け出してきたような、美しい容貌をしていたとされる。また、性格もよく、軽妙洒脱で面白みのある人物であったという。
宗頼が武蔵国に流された事については父の異母弟、伊周が弟隆家と起こした「長徳の変」によるものと思われる。太政大臣恒徳公藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女目当てと誤解した伊周が弟隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するとされている(『栄花物語』。なお、『小右記』によれば、法皇の従者の中に2名の死者が出たともいう)。当時、貴族間のこうした事件は決して珍しいことではなかったが、退位したとは言え天皇に向けて矢を射掛けるという前代未聞の事件が問題にならない訳がなかった。藤原道長はこの機会を見逃さなかった。除目により、内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に貶める宣旨が下され、彼らの異母兄弟、外戚高階家、また中宮の乳母子源方理らも左遷されたり殿上の御簡を削られたりと、悉く勅勘を蒙った。武蔵七党の児玉党の祖となった遠峯は伊周の子である。宗頼も連座して、武蔵国に下向し国衙(国府)に近い日野の地で、当地の古代豪族の系譜を引く日奉氏の女性と結婚し、ここに父系では藤原氏、女系では日奉氏という一族が成立したと考えられる。
貞観九年(867)八月二十一日 武蔵国勅旨牧貢上馬の駒牽の儀がおこなわれる
〔三代実録〕 一四 貞観九年八月二十一日条
廿一日丙戌、天皇御紫宸殿、閲武蔵国貢駒、 〔新訂増補国史大系〕四
(解読)
廿一丙戌(ひのえいぬ)。天皇紫宸殿に御し(清和天皇)、武蔵国の貢駒を閲す。
(解説)
武蔵国の勅旨牧は、延喜九年(909)に立野牧、承平元年(931)に小野牧、承平三年(933)に秩父牧が勅旨牧に編入されるまでは、現在の八王子市とあきる野市にその故地が想定される由比・小川・石川の三牧であった。ここでいう「武蔵国貢駒」とは、この三牧である。記事はきわめて簡略であるが、六日前の信濃国貢駒の記事に「十五日乎辛巳(かのとみ)。天皇紫宸殿に御し、信濃国貢駒を閲覧す。左右馬寮をしておのおの廿疋を択び取らしむ。親王已下、参議已上、おのおの左右近衛中小将、左右馬寮頭・助おのおの一疋を賜るなり」とあって、やや時代が下ってその詳細が明らかになる駒牽とほぼ同じ儀式を執行したことが判る(日野市史史料集古代・中世編)。
この記事の解説から日奉氏はすでに由比・小川・石川の三牧を営んでいたことが知れる。立野牧は立川市にあったと推定すると、武蔵四牧は日奉氏によって営まれたのである。そして、小野牧も日野・八王子両市にまたがって存在し、小野篁の子孫の小野氏によって営まれていた。この小野氏はのちに横山党という武士団となる。多摩の西部一帯は牧で占められていたのである。
お茶の水女子大学の渡辺真紀子氏は「TeaPot」(お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション)に「黒ボク土の生成と農耕文化:とくに放牧との関わりについて」の論文で「黒ボク土」が存在する日本の各地では馬の飼料となる禾本類、とくに長草型のイネ科草類(ススキ・サトウガヤ・トダシバなど)を好み、ついで短草型のイネ科類(シバ・トボシガラ・コブナグサ)を好み、樹葉類はあまり好まない。またササ型草類(ミヤコザサ・ネザサ・ゴキタケなど)は、地域によっては冬にも緑葉をつけているので飼料価値が高い(井上、1967)と指摘している。最も官牧が群集していた地域は本州中央高地東部と関東西半部であり、古墳期の埴輪馬の出土分布とよく対応する。東北地方には平安初期に官牧がなかったが、関西で開発にために廃牧が進み、さらに東国4国に置かれた勅旨牧の牧制が崩壊するのを受けて、東北地方ではしだいに牧の数が増し、鎌倉時代には牧馬の中心は日本の東北部に移っていた(高橋、1958)。 安田(1959)によれば、古代の放牧の方法は、自由放牧(放飼)が一般的飼養法であったが、牧飼も普及し、作物を荒らす恐れの少ない冬季に、付近の山野で自由に放牧し、作物がのびはじめる時期になって、牧に狩り込めるという農業を主体とした日本の国情にあった方法がとられていた。また8世紀初めの「大宝令」にみる厩牧令(ぐもくりょう)では草地改良のための火入れの時期が定められていた。牧の立地は、地形、水、植生に支配されるが、古代の官私牧は氾濫原や三角州、島や岬角、開田のおくれた扇状地、火山山麓斜面、台地あるいは狭い谷底平野が利用された。このうち、平坦で肥沃な沖積低地は耕地の拡大のために、比較的早い時期に放牧の制約を受け、廃牧となった所が多い。
4世紀の終わり頃、朝鮮半島北部の高句麗好太王(こうくりこうたいおう)の碑文が伝えるように、倭政権は半島で、高句麗と戦うが、その最中、高句麗の騎馬戦力に接し、歩兵の不利さを悟った。また戦場で軍を指揮するのに馬上が有利で、倭人が乗馬を始めるきっかけとなった。日本列島における馬の使用は、戦いの手段、軍備の一部として始まった。6世紀中頃からの欽明・敏達天皇の時期、朝鮮半島では伽耶諸国が滅亡し、その前527年には筑紫に磐井の乱が起こり、大和朝廷内部には蘇我氏と物部氏の確執が生じ、国内の政治は混乱を極めていた。そこで大陸対策と内乱の備えとして、強力な騎馬軍団の備えを必要とした。方策は東国の適地に飼馬地(牧場の原型)を置き、国造の子弟を舎人として上番させることであった(茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧、総説)。
牧では自然地形を利用して馬が放し飼いにされる。春には草の生育促進と病虫害対策の配慮から、野焼きが行われた。初夏には、牡馬の発情期に合わせて、優秀な馬を産出するため種馬による交尾が行われた。そのため馬寄せがなされ、また放牧された。秋にはまた馬寄をし、馬の検印と選定がなされる。その際、国司が立会い2歳の駒が新たに登録され、「官」の焼印が押され、牧馬帳に記され中央に報告された。選定された馬は、厩で飼育され馬場で、乗馬ように調教された。その翌年8月、牧監(もくげん)の責任で朝廷に貢上され、天皇の面前で駒牽される。
山鹿牧などでは、牧の責任者である牧長と事務書記役の牧帳がひとりずつ選ばれ、馬100疋を1群として牧子2人が当てられた。馬の管理責任者は牧子であって、馬が損失すれば弁償させられ、駒を増やせば報奨稲がもらえた。それ以外に、馬の調教にあたる騎士、馬医師の馬医(めい)、貢上の駒牽や厩で飼育に従事する飼丁(しちょう)、馬子(まご)、居飼(いかい)、卜部、足工(あしく)等もいた。これらの人々は庸や雑徭などの課役が免除され、彼らは朝廷の左右馬寮の管轄下で、駒を京に貢上する貢馬使となる。その上洛途上、中央の権威を借りて、官道の駅家や郡衙を利用する際に横暴の振る舞いが多かったようだ。官符がないのに駅馬を乗用し、時には暴力に及んでも、地方官の郡司や駅長らも恐れ、その違反を職制から正すことすら出来なかったようだ(茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧、牧の生活)。
天暦5年(951)10月2日の武蔵国勅旨牧の駒牽では石川・小川・由比牧が20疋、立野牧が5疋となっている。長保元年(999)の立野牧の記事を最後に武蔵国貢駒が行われた記録はない。牧の荘園化が進み武蔵国の牧は衰退していつた。しかし、貢駒に替り、牧を経営する別当達は自ら騎乗し武士団に成長してゆく。治承・寿永の内乱を戦い抜いた、西党の平山武者所季重は自分の活躍は千葉氏から手に入れた良馬があったからであると語っている。既に西党の牧には良馬がいなかったのであろうか。
武蔵野のススキは茫々と繁り未開の大地が広がっていたのが武蔵四牧の成立に関わっているであろう。そのススキを育んだのは黒ボク土であった。また、葛の葉や山萩なども馬が好んだという。それも、これらの地には生育していたであろう。
日奉氏の祭神は土淵郷の日ノ宮権現(東京都日野市栄町にある日野宮神社)で、ここを中心に祭祀集団の日奉氏一族が勢力を張っていたといわれている。そして、この地域を拠点とし、在庁官人として勢力を広げ、鎌倉街道の以西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばしたので、多西ないし西を称するようになったという。武蔵七党系図(内閣文庫蔵「諸家系図纂」)は天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)を先祖とし高魂命(たかむすびのみこと)を日奉氏祖神とし、中興の祖を武蔵守宗頼(むねより)としている。宗頼の子宗親(むねちか)は内舎人(うどねり)。宗親にに二子あり。長男宗忠は日内太郎あるいは西内大夫という。二男の宗弘(むねひろ)は二庁官で由井別当とも称し、京都に奉公している。
日奉氏小川氏系図では藤原道頼(山井大納言)の子を宗頼とし、宰相西祖としている。また宗頼を日野宰相、武蔵国に流されるとしている。しかし尊卑分脈には、藤原道頼の子に宗頼はいない。『姓氏家系大辞典』(太田亮)は武蔵国造一族であろうという。
道頼は藤原道隆の長男として生まれたが、母親の身分が低かった事から異母弟藤原伊周よりも低く置かれていた。永延三年(989)権中納言。正暦四年(993)八月二十八日権大納言。長徳元年(995)に大流行した赤斑瘡に倒れて25歳の若さで薨去する。『大鏡』によると、まるで絵から抜け出してきたような、美しい容貌をしていたとされる。また、性格もよく、軽妙洒脱で面白みのある人物であったという。
宗頼が武蔵国に流された事については父の異母弟、伊周が弟隆家と起こした「長徳の変」によるものと思われる。太政大臣恒徳公藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女目当てと誤解した伊周が弟隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するとされている(『栄花物語』。なお、『小右記』によれば、法皇の従者の中に2名の死者が出たともいう)。当時、貴族間のこうした事件は決して珍しいことではなかったが、退位したとは言え天皇に向けて矢を射掛けるという前代未聞の事件が問題にならない訳がなかった。藤原道長はこの機会を見逃さなかった。除目により、内大臣伊周を大宰権帥に、中納言隆家を出雲権守に貶める宣旨が下され、彼らの異母兄弟、外戚高階家、また中宮の乳母子源方理らも左遷されたり殿上の御簡を削られたりと、悉く勅勘を蒙った。武蔵七党の児玉党の祖となった遠峯は伊周の子である。宗頼も連座して、武蔵国に下向し国衙(国府)に近い日野の地で、当地の古代豪族の系譜を引く日奉氏の女性と結婚し、ここに父系では藤原氏、女系では日奉氏という一族が成立したと考えられる。
貞観九年(867)八月二十一日 武蔵国勅旨牧貢上馬の駒牽の儀がおこなわれる
〔三代実録〕 一四 貞観九年八月二十一日条
廿一日丙戌、天皇御紫宸殿、閲武蔵国貢駒、 〔新訂増補国史大系〕四
(解読)
廿一丙戌(ひのえいぬ)。天皇紫宸殿に御し(清和天皇)、武蔵国の貢駒を閲す。
(解説)
武蔵国の勅旨牧は、延喜九年(909)に立野牧、承平元年(931)に小野牧、承平三年(933)に秩父牧が勅旨牧に編入されるまでは、現在の八王子市とあきる野市にその故地が想定される由比・小川・石川の三牧であった。ここでいう「武蔵国貢駒」とは、この三牧である。記事はきわめて簡略であるが、六日前の信濃国貢駒の記事に「十五日乎辛巳(かのとみ)。天皇紫宸殿に御し、信濃国貢駒を閲覧す。左右馬寮をしておのおの廿疋を択び取らしむ。親王已下、参議已上、おのおの左右近衛中小将、左右馬寮頭・助おのおの一疋を賜るなり」とあって、やや時代が下ってその詳細が明らかになる駒牽とほぼ同じ儀式を執行したことが判る(日野市史史料集古代・中世編)。
この記事の解説から日奉氏はすでに由比・小川・石川の三牧を営んでいたことが知れる。立野牧は立川市にあったと推定すると、武蔵四牧は日奉氏によって営まれたのである。そして、小野牧も日野・八王子両市にまたがって存在し、小野篁の子孫の小野氏によって営まれていた。この小野氏はのちに横山党という武士団となる。多摩の西部一帯は牧で占められていたのである。
お茶の水女子大学の渡辺真紀子氏は「TeaPot」(お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション)に「黒ボク土の生成と農耕文化:とくに放牧との関わりについて」の論文で「黒ボク土」が存在する日本の各地では馬の飼料となる禾本類、とくに長草型のイネ科草類(ススキ・サトウガヤ・トダシバなど)を好み、ついで短草型のイネ科類(シバ・トボシガラ・コブナグサ)を好み、樹葉類はあまり好まない。またササ型草類(ミヤコザサ・ネザサ・ゴキタケなど)は、地域によっては冬にも緑葉をつけているので飼料価値が高い(井上、1967)と指摘している。最も官牧が群集していた地域は本州中央高地東部と関東西半部であり、古墳期の埴輪馬の出土分布とよく対応する。東北地方には平安初期に官牧がなかったが、関西で開発にために廃牧が進み、さらに東国4国に置かれた勅旨牧の牧制が崩壊するのを受けて、東北地方ではしだいに牧の数が増し、鎌倉時代には牧馬の中心は日本の東北部に移っていた(高橋、1958)。 安田(1959)によれば、古代の放牧の方法は、自由放牧(放飼)が一般的飼養法であったが、牧飼も普及し、作物を荒らす恐れの少ない冬季に、付近の山野で自由に放牧し、作物がのびはじめる時期になって、牧に狩り込めるという農業を主体とした日本の国情にあった方法がとられていた。また8世紀初めの「大宝令」にみる厩牧令(ぐもくりょう)では草地改良のための火入れの時期が定められていた。牧の立地は、地形、水、植生に支配されるが、古代の官私牧は氾濫原や三角州、島や岬角、開田のおくれた扇状地、火山山麓斜面、台地あるいは狭い谷底平野が利用された。このうち、平坦で肥沃な沖積低地は耕地の拡大のために、比較的早い時期に放牧の制約を受け、廃牧となった所が多い。
4世紀の終わり頃、朝鮮半島北部の高句麗好太王(こうくりこうたいおう)の碑文が伝えるように、倭政権は半島で、高句麗と戦うが、その最中、高句麗の騎馬戦力に接し、歩兵の不利さを悟った。また戦場で軍を指揮するのに馬上が有利で、倭人が乗馬を始めるきっかけとなった。日本列島における馬の使用は、戦いの手段、軍備の一部として始まった。6世紀中頃からの欽明・敏達天皇の時期、朝鮮半島では伽耶諸国が滅亡し、その前527年には筑紫に磐井の乱が起こり、大和朝廷内部には蘇我氏と物部氏の確執が生じ、国内の政治は混乱を極めていた。そこで大陸対策と内乱の備えとして、強力な騎馬軍団の備えを必要とした。方策は東国の適地に飼馬地(牧場の原型)を置き、国造の子弟を舎人として上番させることであった(茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧、総説)。
牧では自然地形を利用して馬が放し飼いにされる。春には草の生育促進と病虫害対策の配慮から、野焼きが行われた。初夏には、牡馬の発情期に合わせて、優秀な馬を産出するため種馬による交尾が行われた。そのため馬寄せがなされ、また放牧された。秋にはまた馬寄をし、馬の検印と選定がなされる。その際、国司が立会い2歳の駒が新たに登録され、「官」の焼印が押され、牧馬帳に記され中央に報告された。選定された馬は、厩で飼育され馬場で、乗馬ように調教された。その翌年8月、牧監(もくげん)の責任で朝廷に貢上され、天皇の面前で駒牽される。
山鹿牧などでは、牧の責任者である牧長と事務書記役の牧帳がひとりずつ選ばれ、馬100疋を1群として牧子2人が当てられた。馬の管理責任者は牧子であって、馬が損失すれば弁償させられ、駒を増やせば報奨稲がもらえた。それ以外に、馬の調教にあたる騎士、馬医師の馬医(めい)、貢上の駒牽や厩で飼育に従事する飼丁(しちょう)、馬子(まご)、居飼(いかい)、卜部、足工(あしく)等もいた。これらの人々は庸や雑徭などの課役が免除され、彼らは朝廷の左右馬寮の管轄下で、駒を京に貢上する貢馬使となる。その上洛途上、中央の権威を借りて、官道の駅家や郡衙を利用する際に横暴の振る舞いが多かったようだ。官符がないのに駅馬を乗用し、時には暴力に及んでも、地方官の郡司や駅長らも恐れ、その違反を職制から正すことすら出来なかったようだ(茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧、牧の生活)。
天暦5年(951)10月2日の武蔵国勅旨牧の駒牽では石川・小川・由比牧が20疋、立野牧が5疋となっている。長保元年(999)の立野牧の記事を最後に武蔵国貢駒が行われた記録はない。牧の荘園化が進み武蔵国の牧は衰退していつた。しかし、貢駒に替り、牧を経営する別当達は自ら騎乗し武士団に成長してゆく。治承・寿永の内乱を戦い抜いた、西党の平山武者所季重は自分の活躍は千葉氏から手に入れた良馬があったからであると語っている。既に西党の牧には良馬がいなかったのであろうか。
武蔵野のススキは茫々と繁り未開の大地が広がっていたのが武蔵四牧の成立に関わっているであろう。そのススキを育んだのは黒ボク土であった。また、葛の葉や山萩なども馬が好んだという。それも、これらの地には生育していたであろう。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 かしゆか やらむ 『万葉歌碑』 (真覚寺万葉公園)
この歌の作者は、豊島郡の上丁(正丁=二十一歳~六十歳までの男子を指す)椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻宇遅部黒女(うぢべのくろめ)である。『万葉集』巻二十所収。
この歌の作者は、豊島郡の上丁(正丁=二十一歳~六十歳までの男子を指す)椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻宇遅部黒女(うぢべのくろめ)である。『万葉集』巻二十所収。