太平記から「横山太郎重真の討ち死に」 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2009年5月23日 (土)

太平記から「横山太郎重真の討死」

 新潮日本古典集成『太平記二』巻第十長崎高重最期合戦の事(135頁)「……されども長崎二郎はいまだ討たれず、主従ただ八騎になつて戦ひけるが、なほも義貞に組まんとうかがうて、近付く敵を打ち払ひ、ややもすれば差し違へて、義貞兄弟を目に懸けて回りけつるを、武蔵国の住人横山太郎重真(しげざね)、押し隔ててこれに組まんと、馬を進めて相近づく。長崎も、よき敵ならばと組まんと懸け合つてこれを見るに、横山太郎重真なり。さてはあはぬ敵ぞと思ひければ、重真を弓手に相うけ、冑の鉢を菱縫の板までわり着けたりければ、重真二つに成って失せにけり。馬もしりゐにうちすゑられて、小膝を打つてどうど伏す。……」横山太郎重真は武蔵七党の一員。『武蔵七党系図』(『姓氏家系辞典』)によれば、左近将監時盛の息。横山太郎重真は和田合戦で滅んだ横山時兼の嫡流であろう。横山氏は八王子市・日野市にまたがる横山庄の主であった(舟木田新庄」)。和田合戦の後、横山氏の動静は知られていなかった。和田合戦の後、横山庄は大江広元に与えられたが、承久の乱に大江親広は宮方に味方した為没収され、横山庄は同族の長井氏に与えられたと思われる。