アメージンググレース | たろうくん(清水太郎)のブログ

たろうくん(清水太郎)のブログ

八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

丸美屋の社長さんの運転手として、よく此の東京オペラシティの近くの路上で待機していた65歳の時には、此のホールでクリスマスイベントに来るとは思いませんでした⁉️山川寛子さんからのお誘いでした‼️従姉妹の洋子さんと2階席が取れました❣️内部を撮影してホールの中で2枚撮影した所で「撮影しないで下さい」のアナウンス、従姉妹も床に置いていた缶ジュースをチェックされてしまいました⁉️
ステージが始まると雑念が❓(ゆうとくんは、大丈夫かなぁ🙆‍♀️)の繰り返しです⁉️2日前の夜に吐いて「ノロか?」と大騒動でした‼️ノロでは、はるとくんが入院したのです⁉️切ない思い出が蘇りました❗️(私と一緒に居られる人たちごめんなさい🙏🙇‍♂️ねぇ)の繰り返し許りのゴモゴモ❗️第2部の中程で、ソプラノのマライェ・ファン・ストラーレンさんが、上手から「アーメンジング…」と静かに唄いながら登場でした❣️「あぁ此の歌の為に私はここに居るのだなぁ」と思いました⁉️するとゆうとくんへの想いが消えていたのです❣️日本語の聖しこの夜を聴くと更に目頭が熱く なってゴソゴソ❓「何して居るの❓」と従姉妹が‼️(目を拭う為にハンケチ探し⁉️)等なんて言えません⁉️
外に出ると洋子さんへ直ぐに電話したのです📞「ゆうとたち元気で出掛けたわよ❣️安心しました‼️
聖しこの夜は、会場の人々も一緒に大合唱になったのでした❣️運命の悪戯かなぁ24日は、私の生まれた日の様なのですねぇ
7歳のレーマと本田美奈子さんが、死の間際に唄われたアーメンジング・グレイスを聴き入っていた時期があるのです❣️

作詞者はジョン・ニュートン (John Newton,1725–1807)。作曲者は不詳。アイルランドスコットランド民謡を掛け合わせて作られたとしたり、19世紀に南部アメリカで作られたとするなど、諸説がある。
ジョン・ニュートンは1725イギリスに生まれた。母親は幼いニュートンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンだったが、ニュートンが7歳の時に亡くなった。成長したニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わり富を得るようになった。
当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症脱水症状栄養失調などの原因で死亡したといわれる。
ニュートンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたが、1748510日、彼が22歳の時に転機は訪れた。イングランドへ蜜蠟を輸送中、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。すると流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのである。ニュートンはこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになった。また、彼は奴隷に対しそれまでになかった同情を感じるようにもなったが、その後の6年間も依然として奴隷貿易に従事し続けた。のちに、真の改悛を迎えるにはさらに多くの時間と出来事が必要だったと彼は語っている。
1755年、ニュートンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の献金を重ねて牧師となった。そして1772、「アメイジング・グレイス」が作詞された。歌詞中では、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝が歌われている。

母親に影響されてゴスペル・シンガーになることを目指している七歳のレイマ(Rhema Marvanne)が、2008年に死んだ母親(Wendi Mercy Marvanne)を追悼するために作ったミュージック・ビデオ。

最近、50代の女優の突然の訃報を聞いた時、何故か、かつて30代の若さでこの世を去った本田美奈子を思い出しました。
アイドル歌手としての彼女にはほとんど魅力を感じませんでしたが、「ミス・サイゴン」や「レ・ミゼラブル」に出演したミュージカル女優として、さらに岩谷時子の日本語歌詞でアメイジング・グレイス(Amazing Grace)を歌った本格派歌手としての彼女は、本当に存在感があって輝いていました。