戦国流転 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

戦国流転

 戦国流転

 戦国大名は、自らの領土を守り強大化する為にあらゆる能力を駆使し、蓄積した富を戦場で費やす。国人や土豪達は一揆を結びやがて、戦国大名の家臣となるか、没落の道をたどる。没落した武士たちは諸国を流浪する事になる。時代は遡るが、徳川家康の祖も大久保彦左衛門忠教の『三河物語』によれば、時宗の僧であり三河国に流れついたのである。「……徳の御代に地宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と奉申……」とある。後北条氏の祖である伊勢新九郎(早雲)も浪人とされていたが、現在は室町幕府政所執事伊勢貞親の同族伊勢盛

定の子盛時であることが明らかにされている。さらに、松前藩の祖は家譜によれば「武田大膳大夫国信の養子(実は同陸奥守信賢の男)信広・若狭を去り、陸奥国田名部に至り蠣崎を領し、上国の主・蠣崎氏を称す、のち北海道にわたる。」とある。このように武士達は少しでも「つて」を求めてそこを頼り、生きのびることを考えた。華々しく死を選んだりせずむしろ「しぶとかった」のだ。本稿でとりあげる堀江氏、大沢氏、天野氏もそのような人々である。

 後北条氏が戦国最後の大名であったことは、家臣となった彼らにとっても過酷な運命がまっていた。特に八王子城に籠った人々は悲惨であった。此の城には僧侶、百姓、職人、老人、女、子供までもが籠っていた。このように乱世では近くの城に籠ることが身の安全を計る方法であった。市内の相即寺に残された大善寺檀越者の過去帳(相即寺過去帳)には、様々な階層の人々の名前が記されている。ここに記されたことは幸せな事かもしれない、名も知れず死んでいった人々が多かったのである。



 乱世を記録した公家の前関白、近衛尚通は『後法成寺関白記』(尚通公記)で当時の将軍足利義澄が近江(滋賀県)へ敗走し、あまつさえ強盗団に襲われるという事件を現在は「戦国の如き時である」と嘆いている。この「戦国」とは中国の「戦国時代」を踏まえたものである。

戦国大名後北条氏は、元亀元年(一五七〇)二月二七日北条家朱印状の中で百姓動員を正当化する為に、乱世の時は「その国にこれある者罷り出で走り廻らずして叶わざる」ものという理論であった。

天文元年(一五三二)七月二三日、北条氏綱は相模国三浦郡の一向宗徒を光明寺檀越としている。(相州文書)。北条氏は永禄九年(一五六六)に、上杉氏に対抗するために一向宗の禁止を解除している。その六〇年前、永正十三年(一五一六)七月北条早雲は三浦氏を滅ぼしている。此の時から一向宗の禁令を発したものであろう(光明寺は神奈川県平塚市金目にある)。

上杉家文書によると、大永元年(一五二一)二月、長尾為景は一向宗を禁止している。

 北条氏の領国では北条氏康から氏政への「代替り」が永禄二年十二月二十三日に行われたとおもわれる。翌年の永禄五年(一五六二)には北条氏照の領域、野蔦郷(町田市野津田町)では逃散した農民に対し「人返し」がおこなわれている。市内野津田町河井将次家所蔵の印判状に「御詫言申し上ぐるに就き、当年貢・諸公事一廻り御赦免し畢んぬ。前々彼の郷に候百姓、何方これ有るとも悉く召返し、野蔦の郷に仕付け、田地を打開き耕作致すべき旨、仰出さるる者也。仍って件の如し」とある。当時の農民たちにとって、大名権力の基盤である農業生産力に低下を企図した逃亡・逃散行為は、領主に対する最大の反抗手段であった。映画「七人の侍」で描かれた百姓のようではなく、その武力はあなどれないものであった。『日本の中世12村の戦争と平和』の「武装する村、その武力」によると、嘉吉三年(一四四三)九月、都にあった伏見宮貞成はその『看聞日記』に洛北の一山村を舞台におきた事件の顛末を書きとめている。要約すると、山名教清の家人と市原野の郷民だ
った。山名教豊(山名宗全の嫡子)は、この一大事に大将として「一家皆数百騎」をもって市原野に押し寄せた。そのほかにも、細川、土岐、赤松、六角らと幕府の奉行衆が加わ(村民)の「口論」から「喧嘩」となり、教清の家人の死者は五人、手負いは数十人となり、郷民らはこの大名連合軍と合戦におよんだ。市原野の郷民は被害を出さず、寄せ手の大名軍に多くの被害が出たとある。この合戦では村人の弓矢が勝るという結果となった。村人つまり中世百姓の弓矢の技術が武士のそれに決してひけを取らなかったのである。