戦国を生きる「大森氏」 | たろうくん(清水太郎)のブログ

たろうくん(清水太郎)のブログ

八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2010年10月 9日 (土)

戦国を生きる 「大森氏」

 戦国の世に入ると力だけでなく総ての能力が求められた。早雲が実に優れていたという他はない。人が良いだけでも駄目である、大森藤頼は騙されて城を盗られたわけであるが、より人間的と言いたい。今の時代は騙される側の人間にむしろ人気がある。戦国の世ではいかにして家を守るのかを主も一族も家臣も必死なのである、お人よしは「たわけ」でしかない。最後まで生き残る、そのために敵、味方両方どちらが勝ってもよいように策を練ったのである。北条氏は五代百年をいきた。朝倉氏も同時代を同じく生きた。後北条氏に仕えた大森氏には大森某・大森越前守・大森兵衛太夫等がいる(戦国遺文後北条氏)。大森の家は滅びたが、幕臣と水戸徳川家の家臣として幕末まで生きたのである。しぶとかったのはむしろ大森氏であろう。

○ 寛政重修諸家譜によれば藤原氏道隆流大森氏の大森藤頼は兄實頼死して其子大森泰頼幼稚なるにより領地を譲られ小田原城に住す。明応四年北条早雲がために城を落とされ、一族とゝもに同国眞田城に退き、居こと三年にをよぶ。こゝにをいて早雲と兵をまじへ、しばしば挑み戦ふといへども畢に北条のために滅さる。

○ 大森藤頼の子、大森泰頼は藤頼没落のとき、幼きにより潜に眞田城を出て甲斐国におもむき、成長にをよび武田家に属して、一家の讐をむくいんとす。しかれどもつゐにこゝろざしをとげず。天文十年(1582)彼地にをいて死す。法名道休。道号中翁。

 大森泰頼の子には泰次・頼慶がいる。

○ 大森泰次 甚七郎 下総守 父死してのち、北条の家臣山中、仙波両家は親戚たるにより、ひそかに泰次をいざなひ相模国にかへる。ときに北条と大森は讎敵たるをもってこれをはばかり、外祖の家号菊池を称し、仙波某に育撫せらる。慶長十五年(1610)死す。年八十二。法名生西。道号往譽。相模国田端の生往寺に葬る。幕臣の大森氏の祖である。

○ 大森頼慶 興三 周防守 武田信玄に仕えて後、梅安と号す。男君安と同居して慶長十三年(1608)戌申十一月二日水戸に病死す。七六歳。君安初め萬千代君に仕ふ八百石を賜いて番頭となる。水戸徳川家の大森氏の祖 (水府系纂)

 雄山角版 新編武蔵風土記稿第六巻氷川村(現奥多摩町)条153頁に大森氏に関する記載がある。

 舊家 百姓峰次郎 今村の里正なり、明応年中相州小田原の城主大森式部少輔氏頼の長男、實頼とゝもにかの城にをり、次男宗頼は小田原の小峯と云所に住せり、其後北条新九郎氏茂(早雲)がために亡ぼされて、兄弟共に没落せしとき、宗頼が子肥後守頼定は此地へ落来り、田村氏の舊跡をつけり、されど此時氏をば小峯と改めたり、此人は永禄十一年(1568)に死せり、是を初代として今の峯次郎は十一代に及べりと云、按に小田原城主大森式部少輔氏頼は、大和守源頼親の遠裔年老て後寄栖菴と号し、明応三年(1494)八月廿六日に卒せり、其子式部少輔實頼同き九年北条氏茂のために没落せしことは、正しき者に見えたれど、峯次郎の家に伝ふ所とはやゝ違ひあり、しかのみならず此家も明和年中丙丁の災にかゝり舊記を失ひ、外に記しとすべきことなけれども、明応年間こゝへ土着せしと云こと正しきならんには、とにかく舊き家なることは知らる、

※この記事は元八王子小学校初代校長大森彦次郎氏の調査のために書きました。氏のご先祖が水戸徳川家の家臣でした。元八王子小学校は創立100周年を迎えます。