武州南一揆と梶原氏 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。



 一揆とは目的・方法などを同一にする人々の結合とその行動。『孟子』の「揆(道・方法)を一つにする」が語源。中世では寺院における僧衆,中小武士戦闘集団,村落農民の闘争など多様な一揆が存在した。多くの場合,一味神水といって神仏を招き寄せて起請文を書いて誓約し,それを灰にして飲み交わすことによって成立する。南北朝期・室町期の関東では,武蔵七党の系譜をひく武蔵・上野の白旗一揆,秩父系武士の平一揆等が活躍。時代が下るにしたがい同族団的性格から上州一揆・武州一揆という地縁集団に変化していった。
 武州南一揆は平一揆の系譜をひく、「禅秀の乱」「永享の乱」「享徳の乱」などでは時には寝返りや日和見をおこなったりした。勝つ方に付くのがこの時代彼らの生き抜く道であった。しかし、彼らの軍事力はどちらの側からしてもあなどれない勢力であった。とくに鎌倉公方足利持氏は武州南一揆を主力としていた程である。
 武州南一揆は、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、横浜市、川崎市)南部に位置する小規模豪族集団の総称で、現在のあきる野にある秋川谷、八王子市にある川口谷、恩方谷を拠点とする平山氏、小宮氏、梶原、師岡氏、川口氏、由比氏らをリーダー的にした組織であった。これに、あきる野市在住の土豪として、貴志、高尾、網野、私市、青木らが加わっていた。現在、あきる野市には、足利持氏が南一揆にあてた書状が14通残されている。
 
 関東管領(上杉憲実)奉行人奉書(「前田家所蔵文書」)

  「大石遠江守入道殿(道守・信重)    冶部丞泰規(島田)」
東福寺雑掌申す、武蔵国多西郡船木田庄領家年貢の事、寺家知行相違なきのところ、領主等難渋の間、去年応永卅十三(年)十一(月)二(日)重ねて京都より御教書をなし下されおわんぬ。案文壱通裏を封じこれを遣わす。ここに平山参河入道・梶原美作守・南一揆の輩、年貢を拘留せしむるの間、有名無実と云々。はなはだしかるべからず。所詮御教書を守り、未進と云い、厳密にその弁を致すべきの旨、おのおのこれを相触れ、寺家の雑掌に沙汰し渡さるべきの由候なり。  よって執達くだんの如し。
  応永三十四年五月十三日         冶部丞(花押)
                           修理亮(花押)
 大石遠江入道殿

 梶原氏は、梶原景時の孫の景継が家を再興し幕府に出仕している。その子景家の娘は大石憲重の妻となっている。また景時の母が横山孝兼の娘であったことなどから多摩地域との関係が深い。「上杉禅秀の乱」の頃には梶原兄弟(美作守・但馬守)や梶原能登守の三家があり、「鎌倉年中行事」によれば御所奉行の役についている奉公衆である。梶原美作守は船木田庄由比郷横川村(八王子市元八王子町)に館跡があり、近くの八幡社の棟札によれば、寛正四年(1463)十月二十一日梶原修理亮家景、文明十七年(1485)十月十六日梶原修理亮入道道賢の名前を確認することができる(『新編武蔵風土記稿』元八王子村の項)。両氏とも同一人物で、美作守の次の代の人物と想定できる。特に梶原美作守の名は『鎌倉大草紙』などにも見える。応永二十四年(1417)三月鎌倉府の修理がおこなわれた時、足利持氏は梶原美作守の屋敷に一ヶ月ほど滞在したという。この村の奥の小字御霊谷に御霊社があり、鎌倉権五郎景政を祖神として祀っており、この子孫である梶原氏の祭神とかんがえられる。おそらく、武州南一揆の梶原氏の本拠地はこのあたりであったろう。