仏教の難解性について | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2009年5月10日 (日)

仏教の難解性について

『日本書紀』第19巻、欽明天皇13年(552年壬申とされる)10月の記事に百済聖明王が送ってきた上表文に「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広がっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」とある。日本で仏教が発達した背景には様々な事情もあると思うが、私は仏教の持つ、その難解性にあると思う。それはまた当時の人々の勤勉性に関係していると思われる。わからないから理解しようとするのだ、易しくてすぐに理解できるなら学問の発展はない。しかしその仏教を隅々にまで理解されるまでには、多くの人々の(最澄・空海・円仁・円珍を代表に)努力があった。それでも現在の私たちの多くが仏教を理解出来ずにいる。拙稿「真言僧儀海の足跡」は鎌倉期までの密教や他宗の成立や事件等を、私なりに東国を中心に展開したものである。だが、間違えないでほしいのは当時の仏教は金ぴかの仏像であり、それは一言でいえば輝いていた力強いものである。そして、弥陀の救いを求める人々がいたことである。それは次第に武士や庶民を動かし歴史を動かした。儀海の属した真義の教学は真義真言宗となつた(江戸時代のこと)が、それは、覚鑁から頼瑜が受け継ぎ、理論化された。覚鑁は密教に阿弥陀思想を取り入れたのである。儀海はその新しい教えを求めて各地を旅し、教典類の書写を続けた。その教えは儀海の弟子達に受け継がれ、日野市の高幡不動にあった。それは弟子の能信が真福寺を開山する際に移され、いま名古屋の真福寺文庫撮影目録(上・下巻)となつて残されたのである。その中には『真福寺本将門記』も含まれていたのではないかと私は考えている。此のことについてはいづれ論考してみたい。