真言僧儀海の足跡 八 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2013年1月30日 (水)

真言僧儀海の足跡 八


八  儀海の布教活動と「由井郷」「慈根寺」

蒙古の襲来による文永・弘安の役は、幕府政治の面では得宗専制を加速させ、西国の荘園・国衙領の住人の動員によって幕府権力の西国への浸透をもたらした。また御家人は恩賞不足に対し不満を持ち、合戦後も続いた異国警固番役の負担に苦しんだ。一方、暴風を神威の現れとみる日本神国観を定着させた。全国各地の寺社では異敵調伏の祈祷が行われた。叡尊も弘安四年(一二八一)閏七月一日同法三百余人をひきいて、石清水八幡宮に参り、南北二京の僧五百六十余人とともに宝前に勤行し、さらに説戒の上、八幡大菩薩に国難を訴え、「東風を以て兵船を本国に吹き送り、来人をそこなはずして乗るところの船をば焼き失はせたまへ」と祈願した。この月八日ようやく浄住寺にひきあげた永尊はその翌日、異国の兵船がさる一日の大風のためみな破損したとの吉報に接したのである。『西大寺光明真言縁起』には陀羅尼結願のとき、永尊所持の愛染明王像の鏑矢が八幡宮の玉殿から西を指して飛行し、異賊をほろぼしたと伝える。その場にいた人々は皆これを見ていたという。文永・弘安の国難は、永尊が宮廷に接近し、西大寺流が朝家に重きをなすために確かに無二の機会であった。極楽寺の忍性も同様であったに違いない。寺社勢力は武家から旧領を回復していった。儀海の布教活動もこの流れの一観であるとおもわれる。船木田庄由井郷を儀海が訪れたその背景に触れておきたい。

 金沢氏(顕時・貞顕)天野氏(景茂・景広)由井氏(由比尼・由比尼是勝)永井氏(宗秀)・梶原性全などは称名寺を中心に文化活動をおこなっていた。金沢氏と天野氏は姻戚関係にある(由比尼)。永井氏の永井文庫は金沢市の金沢文庫との間に書籍の貸し借りを行っていた。また無住は梶原氏の出身であり、梶原性全と同族である。性全は長井掃部頭に仕えたこともある鎌倉時代の有名な僧医で、無住はもともと病弱であったが、長命であったのは性全の処方した丸薬によるという。かれらは、今で言う「サークル」を形成していた。

劔阿の称名寺での実力と長老への就任および湛睿・実真の動向も関係していたと思われる。金沢文庫所蔵の経典類は、金沢氏や称名寺の所領などこれらと関係の深いところで書写されたものが多いようであるが、由井郷は金沢氏と姻戚関係にある天野氏や由井氏の所領であることから、ここで新義教学の布教が熱心になされたとしても決して不自然はではなかろう(『細谷勘資』)


 儀海の動向は永仁三年(一二九五)から嘉元三年(一三〇五)までの間については不明であるが、鑁海のもとで古義教学の研鑽に励んでいたと思われる。櫛田良洪氏は、頼縁が新義教学を慈根寺(八王子市元八王子町)で講義すると聞き訪れたとされている。儀海は川俣甘露寺(福島県川俣町)にも頼縁の事跡を訪ねている。儀海やその弟子たちは多くの聖教類を書写しているが、和紙は、当時高価なうえに貴重品であつたからそれを入手するのには経済的な裏づけがなくてはならない。儀海や弟子の書写活動の地域にはそれを支える豊かさがあったと思われる。儀海が慈根寺から長楽寺(八王子市川口町)に通った八王子市西寺方町に紙谷の地名がある。当時、この地は和紙の生産地であった。また、船木田庄は豊かな荘園であったと思われ。九条家領文書や東福寺文書によれば、摂関家の船木田荘の歴史は古記録に「清慎公(藤原実頼)家文書順孫実資(小野宮流)伝之」と記されている。実頼は藤原忠平の長男で、父忠平は太政大臣の時に東国を揺るがした「天慶の乱」がおきている。平将門の反乱である。将門は忠平の家人となり滝の武士となっている。武蔵の武士らも忠平と主従に近い関係を持つことにより、自らの開発した土地を守ることに必死であったと思われる。忠平は荘園整理令等も行っている。船木田荘が摂関家の荘園となったのは実頼以後と考えたい。慈根寺はこの荘園内に藤原実頼かその養子の実資によって船木田荘の寺として創建されたと思われる。その維持などの費用はこの荘園で賄われたのであろう。慈根寺はかなりの大寺で、この寺の開山は藤原氏京家の出身の元杲(九一四~九九五)である。父は雅楽助藤原晨省。元杲は空海の法流を継ぐ淳祐(八九〇~九五三、菅原道真の孫)の弟子で、天台宗の元三大師良源も同時に学び親交があった。淳祐と元杲はともに祈雨に法験があった僧でもある。また、淳祐は観賢に従って高野山に登り、弘法大師の膝にふれた手の妙香が生涯消えなかったという伝えは広く知られる。

 弘法大師の命日の法会である御影供は、大師没後、潅頂院の弘法大師像の壁画を本尊としておこなわれていた。これが毎年三月二十一日の潅頂院影供である。これに対して中世の御影堂御影供の成立について記したのが、『東寺百合文書』の「延応二年(一二四〇)教王護国寺西院御影供始行次第」である。弘法大師像は天福元年(一二三三)長者新厳の時に作られた。高野山でも弘法大師にたいする信仰がある。儀海も大師に対し「…願以書写生々世々値遇大師聴聞密教」(『瑜祇経拾古鈔』奥書)「…為興隆仏法書写畢、願以書写之功為書写之功生々世々大師値遇之縁而已」(『大日径義釋演密抄』奥書)とたびたび記している。

儀海の由比郷での真福寺文庫撮影目録上・下巻の奥書は次のようである。

嘉元四年(一三〇六)正月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺書写畢 金資儀海廿七

嘉元四年(一三〇六)二月廿八日於武蔵国由井横河慈根寺談議所 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七

 嘉元四年(一三〇四)四月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵写畢 金剛資即円二十七



嘉元四年(一三〇四)四月廿九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子(梵字二字)二十七(儀海ヵ)

嘉元四年(一三〇六)五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院末

資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了

 嘉元四年(一三〇六)十月十二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵見聞畢金剛資即円廿七

即時伝授畢 

嘉元四年(一三〇六)十月十五日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决共々記了 金剛仏子即円廿七

嘉元四年(一三〇六)十月二十二日於武蔵国由井横河菴室亥時書写畢 同月廿三日夜子時一交畢 金剛仏子儀海廿七才

嘉元四年(一三〇六)霜月二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資即円

嘉元四年(一三〇六)極月五日記了 金剛資即円廿七

嘉元四年(一三〇六)極月七日於武蔵国由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛仏子即円二十七

嘉元四年(一三〇六)霜月十一日於武蔵由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資即円二十七

嘉元四年(一三〇六)拾月弐拾二日於武蔵国由井横河庵主亥時書写之畢 金剛仏子儀海廿

七才 同月廿五日夜子時一交畢

嘉元四年(一三〇六)霜月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵子時書写畢 金剛資儀海

嘉元四年(一三〇六)極月廿四日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子即円

嘉元四年(一三〇六)霜月廿六日記了 金剛資即円廿七

徳治二年(一三二八)二月三日於武蔵国由井横河郷慈根寺御房留守之時夜半許書写畢 金剛資即円廿八 同月六日夜寅時驚睡眠日令一交畢 

徳治二年(一三〇七)二月三日於武蔵国由井横河慈根寺御房留守之尅夜半許書写之 金剛資即円廿八同月六日夜寅時驚□眠令一交畢

徳治二年(一三〇七)二月五日武蔵国由井横河慈根寺草庵 金剛資儀海二十八

徳治二年(一三二八)二月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵依可然善縁此抄物令歳得處也偏右無上菩提染筆處也辰時書写了 金剛仏子儀海

徳治二年(一三〇七)二月廿七日於武蔵国由井横河慈根寺之草庵酉時令染筆畢 金剛資

儀海 

徳治二年(一三〇七)二月廿九日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛仏子即円

徳治二年(一三〇七)三月二日於武州由井横河慈根寺草菴巳時令染筆畢 金剛資 即円廿八

徳治二年(一三〇七)四月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子即円

 徳治二年(一三〇七)五月一日於武蔵国由井横河慈根寺草庵受御口决九牛一毛記之畢 金剛仏子即円廿八

徳治二年(一三〇七)五月廿日於武蔵国由井横河慈根寺以御口决九牛一毛記此畢 東寺末葉即円廿八

 徳治二年(一三〇七)五月廿二日於武州由井横河慈根寺草庵承御口决九牛一毛令抄書之了[金剛仏子即円]廿八

徳治二年(一三〇七)六月六日於武蔵国由井横河慈根寺草菴酉尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 三宝院末寺金剛資儀海廿八

徳治二年(一三〇七)六月廿五日於武州由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資儀海廿八

 徳治二年(一三〇七)六月二十七日於武州由井横河慈根寺草菴午尅書写畢 三宝院末資即円二十八

徳治二年(一三〇七)七月七日於武州由井横河慈根寺草菴申尅書写畢 願以書写生々世々値遇大師 敬聞密教 金剛資儀海

徳治二年(一三〇七)九月二十五日日於武州由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛資儀海二十八 同年八月一日於相州鎌倉大仏谷亥尅一交畢

徳治二年(一三〇七)拾月七日於武州由井横河慈根寺巳尅染筆畢 願以書写生々値遇大師密教聴聞 金剛佛子即圓二十八才

已上三ヶ日伝授畢 徳治二年十一月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵御口决小記畢秘抄談義承事偏宿習深厚由也願当□大師御共弥勒会上列開金剛宝蔵施□金剛仏子即円廿八

已上四日伝授畢 徳治二年十一月十三日於慈根寺承口决抄記了 金剛仏子即円廿八

 徳治二年(一三〇七)十一月十三日於慈根寺承少々口决抄記了 金剛仏子即円廿八

徳治二年(一三〇七)十一月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵承口决小記畢 秘抄談義承事偏宿習深厚由也願当□大師御供弥勒会上列開金剛宝蔵施□□□ 金剛仏子即円廿八

徳治二年(一三〇七)霜月五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵受御口决粗記了抄記志偏為無上菩提也 金剛仏子即円廿八

徳治二年(一三〇七)霜月十四日於武州由井横河慈根寺草庵令染筆畢 金剛資即円廿八

徳治三年(一三〇八)正月九日於武州由井横河郷巳尅許令染筆畢 金剛資儀海二十九

徳治三年(一三〇八)四月十二日於武蔵国由井横河郷薬坊書写畢 筆師儀海廿九

 徳治三年(一三〇八)八月廿五日於武州由井横河郷弊坊巳尅書写畢 金剛仏子儀海生年二十九

延慶元年(一三〇八)極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九

延慶元年(一三〇八)極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九已上五日畢 本云嘉元四年(一三〇六)五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院未資(梵字)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了 

延慶元年(一三〇八)極月廿六日於由井横河慈根寺巳尅令書写畢 金剛仏子儀海生年二十

    九

延慶二年(一三〇九)戌申二月廿日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛資儀海

延慶二年(一三〇九)八月二十八日於武州由井横河慈根寺蔽房書写畢 金剛資儀海三十

延慶二年(一三〇九)八月晦於武州由井横河慈根寺令染筆畢 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)卅

延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海

延慶四年(一三一一)正月七日於武州由井横河慈根寺弊坊書写畢 金剛仏子儀海三十二

応長元年(一三一一)十月二十四日於武州由井横河慈根寺蔽坊閣万事令書写畢 三宝院末資 儀海三十二才

 応長元年(一三一一)十月廿九日於武州由井大幡永徳寺如法経修申出写畢 金剛佛子儀海三十二

応長元年(一三一一)十月廿九日於武州大幡永徳寺如法修中書写畢 金剛仏子儀海三十

    二

正和元年(一三一二)六月十九日於武州由井南河口長楽寺西谷草菴談義之間走筆畢 権律師儀海卅二 唯識論一云然諸我執略有二種一者倶生二者分別□倶生我執細故難断後修道中数々修習生定観方能除滅分別我執簾故易断初見道特方聢除蔵之

正和三年(一三一四》九月十六日於武州北河口書写畢 金剛資儀海卅五

正和四年(一三一五)正月二日於延福寺書写了 権律師儀海三十六

正和四年(一三一五)正月五日於延福寺書写畢 権律師儀海卅六 延慶三年(一三一〇)七月二十九日於武州由井横河慈根寺幣房午尅師主以御自筆御本書写畢 (梵字)卅一

正和四年(一三一五)正月十九日於延福寺書写了金剛資(梵字儀海)

 正和五年(一三一六)正月十四日於武州北河口延福寺書写了 三宝院末資(梵字二字)(儀海)三十七

元亨元年(一三二一)十月三日於武州由井河村◆房書写畢 権律師儀海四十二才元亨元年(一三二一)九月廿七日於武州由井慈根寺権律師儀海四十二

元亨元年(一三二一)十月三日於武州由井阿村弊房書写畢 権律師儀海四十二才

 正慶二年(一三三三)正月七日於武州多西郡由井横河慈根寺坊午尅染筆畢 金剛仏子儀海

     三十

正慶三年(一三三四)七月廿三日於武州由井横河慈根寺幣坊賜師主御自筆本未尅書写了

     儀海



頼縁・儀海・即円・能信は嘉元四年(一三〇六)に横河・高幡不動を訪れている。これ

は偶然ではなく、鎌倉より共に来たのではないだろうかと思える。即円は東寺末葉とある僧で、徳治二年(一三〇七)までは行動を共にしていたと思われる。儀海とは同年代である。

西明寺 慈根山と号す。八幡宮別当。新義真言、大幡宝生寺末なり。御朱印社領十石。境内二町余。本尊阿弥陀如来 木立像、作不知。客殿。庫裡。開山権大僧都元杲 正暦三壬辰年(九九二)二月寂。寿八十二歳。されば、至って古き寺なれども、往古何宗なるか、八幡宮棟札によりて考うれば修験にてもあるにや。正暦(九九〇~九九五)の頃よりありし寺にて、その頃には慈根寺といいしならん。それゆえ寺名に古く慈根寺の称えありし。建久二年八幡宮を梶原が勧進の砌に別当所に補せしが、その後また廃せしを西明寺再営のとき山号に慈根山を称して、その由来わずかに存することといえり。

 薬師如来 一軀、厨子入、木立像、七寸五分、安弥陀作。この尊像は北条氏直より寄附し給う所なり。自鳴の鰐口 径七寸五分。この鰐口を往古盗み取る者ありしに、自然と音を出しければ、盗み去ることを得ざりしゆえ社中へ置きしなり。夫より自鳴の鰐口と云う。

 武刕多西郡由井領横川八幡宮鰐口也 下野日光山鹿沼窂人

天正十六年戌子五月廿八日 敬白  横手右近正娘祈念奉寄進者也

(『武蔵名勝図会』)。

 この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となった。八幡神社宮司梶原正統氏宅のある1帯で、本堂跡は中央高速道の下になってしまった。道路ができる以前は古池や古井戸もあった。梶原氏宅には西明寺の過去帳一冊が所蔵されていたが、戦災で焼失してしまった。

 通称「峯山」と呼ばれていた丘の谷に(現在城山小学校がある)小さな滝があった。村人は「ドウドウメッキ」とよんでいた。「メッキ」とは「滅氣」のことであろう。「ドウドウ」は滝の落ちる音であろうか。滝行が行われていたと思われる。この近くを大正時代の地図には太夫坂を越え慈根寺に入り峯山より川村をへて宝生寺の横を通り川口の長楽寺に至る鎌倉古道があった。道沿いには常盤正司氏宅出土の板碑や、山王台の板碑、西光院の板碑などが点在している。

八幡宮 元八王子村鎮守。御朱印社領十石。別当寺西明寺なり。社地より北の方、社領の内に寺あり。神体甲冑馬上の木像。例祭八月十五日。社地は村の中央なり。大門路一町程、入口に木の鳥居あり。高さ一丈二尺許。本社六尺四方、南向。弊殿二間三間。拝殿二間五間。本地仏阿弥陀堂二間四面。本社の傍にあり。本地阿弥陀仏免除地三石。末社四社。合殿小祠。釣鐘堂九尺四方、本社の前にあり。鐘銘文なし。本社の両破風幷に屋根の金物皆、梶原の定紋二本矢羽根、渡金にて附けたり。土俗梶原八幡宮とも云う。梶原平三景時の勧進せしゆえなり。その謂われは次に出す。又云梶原杉と号する大杉二株あり。1株は本社の脇にあり。1株は大門路の内にあり。周径二丈二尺程。これは梶原が勧進せしときよりの社木なり。その余は枯れて、いま並木のみなり。中古以来の列樹なり。

 勧進の最初を考うるに、鶴ヶ岡八幡宮の神体を梶原がこの地へ移し奉れり。康平六年(一〇三六)八月源義朝朝臣始めて造立の地は由比ヶ浜にて、鶴ヶ岡といいし地名なれば鶴ヶ岡八幡宮と称し奉る。いまの地は小林松ヶ岡という地名なれども、古名をとりて今に鶴ヶ岡と称す。左大将家新建の宮殿は建久二年(一一九一)四月造畢。正遷座のとき古き神体を梶原景時に賜いければ、この地は景時が所領の地ゆえ、鶴ヶ岡に似たるところを撰びて鎮座なし奉る。当社も往古は鶴ヶ岡と称し、建久二年六月この地に遷座あり。その時の棟礼歴然として当社に存せり。それより梶原八幡宮とも称したり。宝物 弘法大師墨蹟一軸「八幡宮」と書きたる堅物なり。之は甲斐律師という者奉納するものなり(甲斐律師は頼瑜のこと)(『武蔵名勝図会』)。

 古棟礼 三枚

    奉勧請相刕鶴岡 當社別当覺正

  奉勧請八幡宮  大旦那梶原平三景時

  建久二辛亥歳六月十五日 大工左衛門五郎



   當社別當東光坊聖宗  五度造営之

 奉造營八幡宮大旦那梶原修理亮入道賢孝

               同子息…

             助左…

  文明十七年乙巳十月十六日 大工左衛門五郎…

   裏ニ筆者民部卿永海書畢



   當社別當因幡律師宗濟 大工左衛門五郎

 奉造營八幡宮大旦那梶原修理亮家景

  旹寛正竜集 癸未十月廿又二日

   裏ニ勧進沙門東福権僧都聖範 寫



慈根寺を支えた人々の中に鎌倉御家人梶原氏がいる。梶原氏はこの地と関係が深く梶原景時の母は横山庄の別当横山孝兼の娘である。この孝兼は和田合戦で滅んだ横山時兼の曽祖父にあたる。慈根寺の所領は横山孝兼の娘の持参であった。梶原景時は正冶二年(一二〇〇)十月、新将軍源頼家に結城朝光を、異心を抱く者として讒言したことから、三浦・和田その他、重臣の憤りを招き、景時ら一族は鎌倉を追放された。景時は源氏の一族、武田有義を将軍に擁立を計り上洛を企てたが、駿河国狐崎で在地の御家人の為に殺され一族は滅んだ。景時の長男、景季もこのとき父と運命を共にした。景時の次子、平次景高の子景継は三代実朝嗣職の後、再び召されて鎌倉幕府に仕えた。後の時代に室町幕府の鎌倉府に仕えた武州南一揆の梶原美作守・但馬守の兄弟や梶原能登守がいる。梶原美作守は船木田庄由井郷横河村(八王子市元八王子町)に舘跡があった。



三日 癸卯 小雨灑ぐ。義盛粮道を絶たれ、乗馬疲らすのところ、寅の尅、横山馬允時兼、波多野三郎(時兼が婿)横山五郎(時兼が甥)以下數十人の親昵従類等を引率し、腰越の浦に馳せ来るのところ、すでに合戦の最中なり(時兼と義盛と叛逆の事を謀り合わすの時、今日をもって箭合せの期と定む。よって今來る)。よってその黨類皆蓑笠をかの所に弃つ。積みて山を成すと云々。しかる後、義盛が陣に加わる。義盛、時兼が合力を得て、新覊の馬に當る。彼是の軍兵三千騎、なほ御家人等を追奔す(『吾妻鏡第廿一』建暦三年五月)。

和田合戦で横山一族の主な人々は討死にする。その中に「…ちみう(ちこんしィ)次郎

・同太郎・同次郎・五郎…」の記述がある。「ちこんしィ」は慈根寺であろう。

戦国末期の新陰流上泉伊勢守信綱の高弟に神後伊豆がいる。名を宗冶といい武蔵八王子の出身で、永禄六年以降師伊勢守に従って諸国を武者修行し、将軍足利義輝・関白豊臣秀次の前で数々の武芸を演じ賞賛の辞を賜わった。この神後伊豆も慈根寺氏の末裔である。

「お父さんどうしてぼくのところは二分方などというへんな地名なの」「……」父無言であるわからない(八王子市二分方町の父と子の会話)。大正十三年の国土地理院の五万分の一の地図には弐分方・上壱分・下壱分方とある。この地名のいわれは鎌倉時代に全国各地で起きた土地の相続や境界をめぐる相論によるものである。由井本郷では正和二年(一三一三)五月二日と文保元年(一三一七)六月七日に幕府が裁定している。最初は儀海が在郷していた時である。どのような思いで儀海は見つめていたのであろうか。

 由比本郷は中世の船木田庄内の郷村で、由比は由井・油井とも記される。「延喜式」に武蔵国の四牧の一つとしてみえる由井牧の故地で、八王子市西寺方町・上壱分方町・二分方町・大楽寺町・四谷町・諏訪町の一帯と推定される。建長八年(一二五六)七月三日の将軍家政所下文(尊経閣文庫所蔵『武家手鏡』)によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」などの所領を安堵している。この所領は永仁二年(一二九四)景経の子頼政に譲られた。やがて、その子孫の顕茂・景広兄弟の間に、由井本郷をめぐる相論が惹起し、正和二年(一三一三)五月二日幕府は両者の和与を承認した。それによれば由井本郷のうち三分の一が弟景広に譲られ、三分の二が顕茂の所領となった。また文保元年(一三一七)六月七日の顕茂・景広兄弟とその姉妹尼是勝との和与を承認した。関東下知状(天野文書)によれば、本来この由井郷は武蔵七党の一つ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。鎌倉時代の女性はこの相論から知れるように所領を相続する権利を持っていた。お袋様という言葉はこの頃、母親が領地の証文を袋に入れ持っていたことにからによるという。



 天野肥後三郎左衛門尉顕茂と同次郎左衛門尉景広と相論す、亡父新左衛門入道観景の遺領武蔵国由比本郷、遠江国奥山の郷避前村、美濃国柿の御薗等の事、

右の訴陳状につきてその沙汰あらんと欲するの処、去月廿八日両方和与畢んぬ、顕茂の状の如くんば、右の所々は、亡父観景の手より去る正応二年三月卅日顕茂譲得の処、景広は徳治三年六月十七日の譲状を帯すと号し、押領せしむるの間、訴え申すにつきて、訴訟つがえ、相互に子細を申さずといえども所詮和与の儀を以て、顕茂所得の内の由比本郷参分の壱(ただし屋敷・堀ノ内等は参分の二の内につく)美濃国柿の御薗半分を景広に避渡し畢んぬ。次に正応の譲状に載する所の景広の遠江大結、福沢幷長門国岡枝郷等(中略)景広分たるべし云々者、早くかの状をまもり、向後相互に違乱なく領知すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し。

   正和二年五月二日 相模守 平朝臣(北条凞時)(花押)


天野肥後左衛門尉顕茂法師(法名観景、今ハ死去)女子尼是勝(本名尊勝)の代泰知と兄次郎左衛門尉景広の代盛道、同じく弟三郎左衛門尉顕茂の代朝親等相論す、由比尼是心(観景姑)の遺領遠江国大結福沢両郷、避前村、武蔵国由比郷内田畠在家(源三郎作)の事

右訴陳状につきて、その沙汰あらんと欲するの処、各々和平し畢んぬ。朝親の去月廿五日の状の如くんば、由比尼是心の遺領武蔵国由比本郷内源三郎屋敷(顕茂知行分)、遠江国避前村等中分の事、右是心の養女の尼是勝訴訟につきて、訴陳をつがえ、問答といえども、和与の儀を以て、源三郎屋敷(打越の地を除く定)炭の釜一口のうち三分の一幷避前村等半分(巨細は目六に載せ畢んぬ)尼是勝にさけ与うる者なり。ただし避前村の代官屋敷は顕茂分たるべく、同村内中辺名の代官屋敷は、是勝分たるべし、若しかの屋敷、避前屋敷の処に交量すれば、不知分に於いては顕茂の分を以て入立つべし。又諏訪社(大宮と号す)毘沙門堂は、顕茂の分たるべし。八幡(西宮と号す)十二所権現は是勝分たるべし。次に源三郎屋敷内の社一所(二十四宮と号す)は顕茂たるべし。御堂壱所(是心の墓所)は、是勝分たるべし。然れば即ち顕茂文の注文と云い是勝の注文と云い、後証のため両方に加判せしむる所なり。自以後は彼の状に任せ、相互に違乱なく領知すべし云々。泰知同状の如くんば、子細同前と云々。盛道同じく廿七日の状の如くんば、由比の尼是心の遺領武蔵国由比本郷のうち源三郎屋敷、田畠、在家幷びに炭釜(景広知行分)遠江国大結、福沢両村等中分の事、右是心養女尼是勝訴訟につき、訴陳をつがえ、問答を遂ぐといえども、和与の儀を以て源三郎屋敷内田畠在家景広知行分幷びまた大結、福沢半分を是勝にさり渡す所なり。但し今は坪付以下委細の目六なきの間、地下の注文を召し上げ、後の煩いなきのよう、来月中に是勝方に書き渡すべし。次に是心跡の炭釜一口のうち六分の壱は是勝分たるべしと云々。泰知同状の如くんば、子細同前此の上は異儀に及ばず、早く彼の状に任せて沙汰致すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し

 この相論の史料を読むと炭釜の所有権が和与の対象となっている。この炭釜が刀剣等の製作に関わっていたのではないかと従来いわれていた説もあるが、東国、多摩川の上流では炭焼きが盛んにおこなわれていたようである。日常的なものであった。時代は下るが永禄年中、栗原彦兵衛が北条氏照の奉行より炭焼を命ぜられた文書がある。

 同村内中辺名の代官屋敷とは現在の下恩方町字辺名の地であろう。諏方(大宮と号す)毘沙門堂の地は諏訪神社ではないであろうか。

 源順が承平年間に撰進した『和名類聚抄』によれば、多摩郡は十郷より成り立ちその中に川口郷がある。この地は八王子市川口町・上川町の地で、宮田遺跡より出土の「子供を抱く母子像」の土器は考古学史に残るものである。川口川・谷地川・湯殿駕川の流域は水利に恵まれ稲作には適した地であり、早くから開発が進んだ所である。これらの川の上流の谷戸には「谷戸田」があり、小規模な水田が作られていた。

 我が国は「瑞穂の国」と古くから呼ばれ、稲作中心で自給自足の生活であったと言われていたが、そのようではなく中世では交易も盛んになり、足りない物資を求めて商業活動をする「百姓」もいたのである。百姓∥農民の図式ではなく、手工業・商業活動に携わっていた。中世初期の荘園では稲作以外に焼畑・畠作・漆・桑・柿・栗・苧等を作り、布・絹・錦等を織り商業活動等を営んでいる。いつの時代も織物は女性の仕事であった。船木田庄内でも各種の産物が作られ、それはら都に送られ、それらを運送する専門の人々もいたであろう。「武蔵多西郡船木田庄について」の研究ノート(杉山博)に文和三年(一三五四)閏十月廿一日船木田年貢代付物送文に、絹・小袖等の代価が記されている。

 本稿の題名「儀海みち」は儀海が慈根寺から、宝生寺のある大幡へと歩み、幡峯を越えて川口長楽寺にゆく姿と、新義真言教学に励む求法儀海の人生の過程をイメージしてつけたものである。幡峯から南に望むと由井の深沢山(八王子城のあった山)は円錐形の先端を少し切ったような山容である。この地に住む人々は早い時代からこの山に対する信仰があったと思われる。儀海も幡峯の麓にあった大幡観音堂に身を休め、その縁で宝生寺の開山となったのではないかと思われる。



永仁二年(一二九二)九月二十九日鎌倉幕府は、藤原景経が子息顕政に譲与した船木田新庄由比内横河郷等の領有を保証する。(『日野市史史料集古代中世編』)

〔尊経閣文庫所蔵文書〕一関東下知状

早く左衛門尉藤原(天野)顕政をして領知せしむべき武蔵国舟木

田新庄由比内横河村・安芸国志方庄西村・美濃国下有智御厨寺

地・橘村ならびに弥四郎兵衛尉遠江国西□山内佐久・八重山・

小松崎地頭職 寺地・橘・佐久・八重山・小松崎、後家一期の

後、知行すべきの由、譲状に載す、事

右親父安芸前司(天野)景経法師法名心空の去ぬる八月廿日の譲

状に任せ、領掌せしむべきの状、仰せによって下知件のごとし。

      永仁二年(一二九二)九月廿九日

                  陸奥守平朝臣(北条宣時)(花押)

                  相模守平朝臣(北条貞時)(花押)