北条氏照家臣ー間宮若狭守綱信ー | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2010年4月29日 (木)

北条氏照家臣ー間宮若狭守綱信ー

 まみや〔間宮〕 『寛政譜』巻四三三に間宮氏系図を載せ、宇多源氏の氏族佐々木氏の出と伝える。室町期に真野新左衛門信冬が伊豆国間宮庄(静・函南町)に移り間宮氏を称した。信冬の子孫豊前守信盛が伊勢宗瑞に使え、信元ー康俊ー康信ー直元と続いた。
【間宮綱信】つなのぶ 源十郎・若狭守。信元の次男。武蔵国滝山城(東・八王子)城主北条氏照の家臣。使者を務める。室は宅間富朝の娘。天正二年(1574)十二月二日芳春院周興・昌寿連署書状案(喜連川家料所記・四四七〇)では古河公方の御料所を書きあげて垪和康忠に差し出し北条氏照の家臣狩野宗円と間宮綱信の確認の証判を据えた。『信長公記』巻十三には天正八年三月九日に綱信は近江国安土城(滋・安土町)の織田信長の許に北条氏照の使者として赴き滝川一益の饗応を受け安土城を見学、十日には京都を見物して帰国した。
 
 『信長公記』巻十三、天正八年三月九日、北条氏政より鷹十三足が進上されてきた。その中には、「鴻取・鶴取・真那鶴取」と名付けられた鷹も入っていた。また同時に馬五匹も進上された。進上は洛中本能寺で行われ、鷹居の者が据木に繋いで信長公へ進上した。この時申次を務めたのは滝川一益であった。
 翌三月十日、今度は氏政の使者が到来して信長公へ御礼を行った。進物の太刀および進物目録の折紙は佐久間信盛が披露したが、その内容は以下のごとくであった。
 進物  白鳥 二十  熨斗 一箱  蚫 三百   煎海鼠 一箱  江川酒 三種二荷  以上

なお氏政の使者は笠原越前守、舎弟氏照の使者は間宮若狭守であり、さらに下使として原泉和守が同行していた。

 関東衆の口上の趣旨は、対応を務めていた武井夕庵・滝川一益・佐久間信盛の三使との間で縁組を行い、関八州を織田分国として参らせたいというものであった。そして口上ののち笠原越前が太刀・折紙を進上し、間宮若狭守が氏照の御礼をごんじょうした。次いで笠原・間宮両名が自らの御礼を申し上げ、最期に原泉和が御礼を言上した。
 そうして各自が退出したのち、信長公は関東衆へ「使いの儀、幸いのことであった。滝川左近案内にて京都を懇ろに見物いたし、そののち安土へくだられよ」との言葉を伝えた。そして自身はその日のうちに京を出、途中大津の松が崎近辺で白の御鷹を放ったのち、晩になって舟で矢橋に上陸して安土へ帰城したのだった。その後信長公は十三日になって金銀百枚を使者の笠原・間宮両人に贈り、「京都にて田舎の土産を揃えられよ」ともうされた。
 
 八王子城は天正六年頃から築城が始まったとされている。間宮若狭守はこの安土城での見聞を八王子城の築城に際して活かしたとされている。信長は天皇を招く施設を安土城に設け、氏照は古河公方を八王子城へ招く施設を設けたと思われる。
 天正十八年六月の八王子城(東・八王子市)落城ののちは徳川家康の家臣西尾吉次に召し出され徳川家に仕え武蔵国氷取沢村(神・横浜市磯子区)で隠居料500石を宛行われた。慶長十四年(1609)十月十日歿。七十四歳であるから安土城訪問は四十五歳頃のことであろう。此の時、氏照は四十二歳である。のちの子孫に間宮林蔵がいる。