戸田清玄 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

2010年1月29日 (金)

戸田清玄

 戸田清玄は富田勢源と同一人物と思われているが別人である。清玄と勢源は読み方が同じだから同一人とする人が多い、勢源は京都将軍(足利氏)の末、清玄は豊臣太閤の頃の人である。清玄は諸国を巡遊して門人が多いが、国々によって幾らか教え方が違うらしい(諸国の流末の剣法内容に差異がある)。現在、備前・備中・備後におこなわれる戸田流もその一つで、清玄門人の杉原無外という者が居合・棒を工夫して弘く伝えたのであるが、一説にはこの流の居合も棒も元は清玄がはじめたのだともいう。
 戸田清玄は疑問の多い人物で、堀正平氏が清玄は俗名平五郎で富田勢源の門弟としておられるのに対して、山田次郎吉氏は別説で、初代戸田清玄が富田勢源その人であり、家を弟景政にゆずって以後、戸田清玄と書換え、流名も富田流から戸田流に改めたといい、さらに戸田新八郎(越後守、綱義、一利とも)が二代目戸田清玄であって、この人は越後国頸城郡戸田の産とも芸州の人弥左衛門星眼の子ともいわれ、文禄のころ疋田栖雲斎(文五郎)に新陰流を学び、加賀前田家につかえて五〇〇石、寛永十五年(1638)金沢に死す。七十五歳。『翁物語』に上泉門の四天王という疋田・柳生・戸田・小笠原の内の戸田清玄は、二代目戸田清玄の新八郎にちがいない、云々。
 松原唯心の『武芸談』(寛永)に、「……一刀流の元祖戸田清玄というものは、武州八王寺の者にて、北条氏政につかえし者なり……」という一条がある。これは戸田清玄の出身地に関しては、私の見た限りでは唯一のぶんけんである。著者の松原唯心の経歴は不明であるが、私だけの推測では古藤田勘解由左衛門(伊藤一刀斎の門人で号を唯心という)の前名ではないかと思う。薙刀の武甲流伝書を見るに、流祖を戸田清玄とし、「戸田清玄ー北条氏邦ー強矢弾正ー大福御前…」以下の承伝が残されているのを併せ考えるのに、前記のごとく戸田清玄が北条氏の遺臣だったことは正当とおもわれる(綿谷雪著『日本武芸小傳』)。
 佐々木小次郎については、中条流の富田勢源の弟子と『二天記』に記されているけれど、信憑性が曖昧で、勢源の弟子なら、恐らく六〇歳を超えるし、勢源の弟子の鐘捲自斎か戸田清玄の弟子では無いかという説がある。数年前に私の小学時代の恩師、須田忠治先生が佐々木小次郎が修行した越前の地にある滝の図を年賀状に書いて下さった。今から思うとこれも不思議な縁である。
 戸田清玄の八王寺の出身地については、神後伊豆ほど明確に特定できない。八王子は北条氏照が由井の深沢山に八王子城を築いた後に(天正六年頃か)広く使われた地名である。