天正期における北條氏照家臣団ー池上平三ー | たろうくん(清水太郎)のブログ

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天正期における北條氏照家臣団ー池上平三ー

   ― 土屋備前守軍役人數書立に見る戦国 ――

  三二〇 北条氏照着到書立写 諸州古文書一二

         1本やり
   三人上下  一本さし物   池上平三
        以上

【池上平三】 着到状以外にその名はないが、池上将監丞の一族である可能性がある。
○北条氏照の家臣に池上某がいる。天正五年(カ)七月五日北条氏照書状(金上文書)では会津黒川城(会津若松市)の城主芦名盛隆と北条氏照との外交交渉で使者に赴いた。天正十四年九月二十六日北条氏照判物写(佐野家蔵文書)では下野国鹿沼(鹿沼市)への加勢として氏照の家臣小野田源太左衛門尉と池上将監丞等を派遣し、軍律を守るように申し渡す。
○八王子城横山口(八王子市元八王子町二丁目通称石神坂)に池上新右衛門道善の屋敷があったと言われる。元禄二年には氏照の旧臣の子孫であろうと思われる、池上新右衛門が讃州高松家中にいる(『多摩文化』第十四号)。
慶長十三年(一六〇八)、徳川家康はその子頼房を水戸に封ずるにあたって、附家老として、元北条氏の家臣で勇名をはせた中山勘解由の子・信吉を選んだ。中山氏は戦国期、飯能市中山周辺の土豪であり、北条氏に仕えていた関係であろう、配下の者一七名を、北条の遺臣たちから選んだらしく、この中には青梅市域内から「清戸三番衆状」に名が出てくる、富岡あたりの久下兵庫助、厚沢の住人若林作兵衛、二俣尾居住の神田伊兵衛、師岡の住人で、後に吉野織部之助に協力して新町開拓を行った池上新左衛門らが含まれていたが、いずれもその後間もなく水戸家の仕官を辞し、帰村してしまった(滝沢博「帰農した地侍たち」『多摩のあゆみ』第四十六号)。