大石氏ー婿殿達の戦国ー
天文15年(1546)4月の川越城(埼・川越市)の戦いで扇谷上杉氏が北条氏に敗れると大石道俊(真月斎)は北条氏に属し、養子源左衛門綱周は
娘(比佐ヵ)と北条氏康の三男藤菊丸を夫婦とし家督を藤菊丸に譲って隠居したと伝えられる。この綱周は憲重(源三・源四郎・源左衛門尉)を称したが、のち
に葛西城主の大石石見守となり、永禄4年(1561)の関東幕注文に「一てうのは二葉 大石石見守」と見える人物ではないだろうか。『異本小田原記』には
弘治元年(1555)に小田原の海蔵寺で、結城政勝と歌を詠んでいる。
忘れめや假寐の露の明ぼのゝ消えせぬ雪に庭の卯の花 綱周
木曽大石系図「八王子市下柚木伊藤家所伝」と芹沢家系図では大石定久には二人の娘があり、伊藤家所伝には「比佐 陸奥守氏照室 」「登志 太田美濃守資 正室」とある。「登志」は梶原源太の母であろう。このことから「比佐」については氏照との年齢から考えると、むしろ、定久の養子とされる綱周の娘とした い。そして、大石綱周は大永5年(1525)12月15日の淨福寺再建棟札銘には「大旦那大石源左衛門入道道俊幷子息憲重」とある。遠江守と信濃守が綱周 の弟なら、定久との親子関係はどの様に考えたら良いのであろう。以前は氏照も定久の養子としていたのであるが、最近では綱周の養子とする説が有力である。 今後の研究課題としたい。