真言僧儀海の足跡 六 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

真言僧儀海の足跡 六


 六  中世と阿弥陀信仰

中世は仏教の時代である。阿弥陀への信仰は飛鳥時代からみられるが、平安時代後期以後、特に浄土教が興盛し、鎌倉時代に浄土宗・浄土真宗(または真宗)・ 融通念仏宗・時宗などの諸宗派が成立し、浄土教は日本仏教の一大系統を形成するにいたった。『往生要集』の源信、阿弥陀聖・市聖と呼ばれた空也がその先駆 けである。聖の多くは単独であるが、集団で居住する場所を〈別所〉と呼び、大原や高野山が著名で、中世には高野聖や遊行聖などが活躍した。

末法 仏教における時代観ともいうべき〈正法〉〈像法〉〈末法〉の三時思想の第三時。教えだけが残り、人がいかに修業して悟りを得ようとしてもうてい不可 能な時代をいう。〈末代〉とも呼ばれる。仏法が衰退するこの末法の時代は、吉蔵の『法華玄論』10。正像義などによれば一万年とされ、その後、教えも完全 に滅びる〈法滅〉をむかえるとされる。日本ではすでに奈良時代に現れ、しだいに末法意識が高まっていった。奈良時代には慧思の『立誓願文』に基づく正法五 〇〇年、像法一〇〇〇年説も行われたが、平安時代以降は吉蔵の『法華玄記』などに基づく正法一〇〇〇年、像法一〇〇〇年説が一般化し、唐の法琳(五七二~ 六四〇)『破邪論』上に引く『周書異記』の釈迦の入滅を「周の穆王の五十二年、壬申の歳」(紀元前九四九)とするのに従って、永承七年(一〇五二)より末 法の時代に入ったとされ、『扶桑略記』永承七年一月二十六日にも「今年始めて末法に入る」と見える。それを裏づけるように、そのころから災害や戦乱などが 続発したため、末法意識が特に強まり、この末法の世を救う教えとして浄土教が急速にひろまることとなった。

永観 えいかん 長元六年(一〇三三)~天永二年(一一一一)〈ようかん〉とも読む。院政期浄土教の代表的な人物。父は文章博士源国経。十一歳のとき禅林 寺の深観に師事。翌年東大寺で具足戒を受け、有慶・顕真に三論を学び諸宗を兼修する。早くより念仏の行をはじめ、三十代で東大寺の別所である山城国相楽郡 の光明寺に隠棲して念仏を専らにする。延久四年(一〇七二)、四十歳で禅林寺に帰住。康和二年(一一〇〇)より三年間東大寺別当を勤めたほかは、称名念仏 と衆生教化・福祉活動を通じて浄土教の流布に努め、法然のも大きな影響を与えている。主著に『往生拾因』があり、その主張を実践化した往生講の作法として 『往生講式』を製作している。なお、禅林寺は彼の名をとり〈永観堂〉と通称される。

 永観堂禅林寺には有名な「見返り阿弥陀如来像」がある。この寺の本尊である。阿弥陀仏が自分の左肩越しに後ろを振り返っておられる珍しいポーズの造像で ある。臨終の際に阿弥陀が来迎して極楽浄土にいざなう時に、間違いなく後をついてこられるか振り返るという慈愛に満ちた姿をさし示すともいわれている。一 方、禅林寺の阿弥陀仏像には次のような伝説がある。

 ある夜、永観は、須弥檀の周りを念仏行道していた。ふと気がつくと、自分を先導する影がある。それは、まぎれもなくご本尊の阿弥陀仏である。永観は驚い て立ちすくむ。すると阿弥陀仏が後ろをふりむいて、「永観おそし」と言われた。寺伝によれば永保二年(一〇八二)二月十五日のことであるという。その瞬間 の阿弥陀仏の姿を刻んだのがこの「見返り阿弥陀如来像」とある。しかし、永観が東大寺を去る時に、如来堂の阿弥陀仏が永観の夢枕に立たれて、「そなたが禅 林寺に帰るなら、わたしもついて行く」と告げられ、永観が禅林寺に背負い帰る時に、東大寺の僧達がこの阿弥陀如来像を奪い帰さんとしたが、どうしても永観 の背を離れなかった。東大寺の僧達もあきらめたという。この阿弥陀仏はよほど永観が好きであったのであろう。一説によると、永観は毎日一万遍、後には六万 遍の念仏を唱えたという。その結果、晩年には舌も乾き喉も涸れて声が出なくなった。それで仕方なく、最後には観想念仏に変えたという。東大寺の阿弥陀如来 像が「見返り阿弥陀如来像」であったとはおもわれない。

阿弥陀仏と永観とは深い縁でむすばれていた。阿弥陀仏と永観とが「一心同体」になっていたのである。親子のつながりにも似た深い愛情の絆、これが浄土門の 仏教が形成される過程には必要であつた。私事であるが、母方のこともあり曹洞宗に宗旨替えしたが、父方は富山の門徒である。父の兄が「南無阿弥陀仏」と唱 える声が「なんまいだ」と私にはきこえた。永観と阿弥陀仏の話については、本稿作成以前に深く感動し永観について資料を集めていたが、覚鑁が永観に影響を 受けているということまでは知らずにいた。ちなみに真言宗の古義と新義を分ける分岐点にいたのが覚鑁である。何かの縁であろうか、私にとって弥陀は近しく 感じるのである。

覚鑁 嘉保二年(一〇九五)~康冶二年(一一四三)真義真言宗開祖。号を正覚房、諡号興教大師、また鑁上人・密厳尊者とも呼ばれる。肥前国(佐賀県)の出 身。伊佐氏。十三歳で仁和寺寛助の室に投じ、寛助・定覚より密教を学ぶ。翌年、南都興福寺で慧暁より倶舎・唯識を、東大寺覚樹院で華厳、同寺東南院で三論 を学んだ。十六歳で得度し、十八契印・両部大法・護摩秘軌などを精勤した。二十歳、東大寺戒壇院で具足戒を受け、その年、高野山に登り、阿波上人青蓮に迎 えられ、ついで最禅院明寂に師事して虚空蔵求聞持法を合計九回修法。その間、仁和寺成就院道場で寛助から両部潅頂を受け、また醍醐理性坊賢覚(一〇八〇~ 一一五六)から五部潅頂を受けた。これら潅頂や求聞持法の結願には奇瑞が現れ悉地を得たという。鳥羽上皇(一一〇三~一一五六)の帰依を得て、〈大伝法 院〉を建立し、密教教義の教育研鑽の儀式である伝法会を復興した。東密・台密の事相を総合して伝法院流を開いた。また平安末期の浄土思想を密教的に裏づけ た密巖浄土思想や真言念仏、一密成仏思想を表明。四十歳の時、金剛峯寺(高野山)座主となったが、翌年、座主職をめぐる争いを厭うて密厳院に籠り、千日無 言行を修した。荘園をめぐる金剛峯寺方との争いを避けて四十六歳の時、高野山から根来寺に移り、四十九歳、根来寺で入寂。著書に『五輪九字明秘釈』があ り、詳伝に『伝法院本願覚鑁上人縁起』がある。

頼瑜 らいゆ 嘉禄二年(一二二六)~嘉元二年(一三〇四)真言宗の僧。字は俊音、初名豪信、俗姓土生川氏。紀伊(和歌山県)那賀郡の豪族の出身。初め城 南の玄心に得度受戒。奈良で顕教を学んだ後高野山・仁和寺・醍醐寺などで真言の事相・教相の二相を修学。弘安三年(一二八〇)中性院流を開く。金剛峯寺 (高野山)の徒と対立し、大伝法院と密厳院を根来に移し、新義真言宗を別立。古義の宥快(一三四五~一四一六)、杲宝(一三〇六~一三六二)などに比され る大学匠。主著作に『大疎指心鈔』『真俗雑記問答』『秘鈔問答』『薄草子口決』など。

 頼瑜は覚鑁の根来の流れを継承し、発展させた中心人物である。鎌倉仏教の各祖師の中に伍し、日蓮宗の開祖である日蓮とほぼ同じ時代を共有した。この時代 には、フビライ汗の率いるモンゴル軍が二度にわたって来襲した。文永の役と弘安の役である。頼瑜の厖大な著述の中で、人間頼瑜とその周辺を知るには『真俗 雑記問答鈔』が重要である。「真言宗全書」本には克明な索引が附されており、頼瑜自身の和歌や、浄土・禅宗に対する批判なども開陳されている。大伝法院 (根来寺)教学の基礎確立のために情熱を注いだことは、激動の鎌倉時代を反映したとも受け止めることができよう。宗祖弘法大師への思慕と、その教学の展開 及び子弟教育は覚鑁の使命であったが、頼瑜も同じ請願のもとに活躍した(『福田亮成』)。

 儀海に関する記述は、永仁三年(一二九三)に紀州根来大谷院で『十住心論愚草』の草本を以て書写したことが、史料上の初見となっている。

元徳二年(一三三〇)霜月廿日夜於紀州根来豊福寺中性院書畢 権律師儀海 

儀海の出自については明らかではないが、名古屋大須真福寺所蔵の経典の奥書によれば弘安二年(一二七一)の生まれと推定され、この時十六歳位であったと思 われる。頼瑜の最晩年には根来寺で師事した事と思われるが、その期間については定かではない。頼瑜の法弟である鎌倉大仏谷の頼縁には教えを受け、それは 『潅頂秘訣』奥書に、「元徳元年(一三二九)十二月三日、於武州多西郡高幡不動堂弊坊書写畢、右秘訣者先師最後対面之時、奉伝授之畢、誠是衣数年之懇切令 感得之畢、」とあるので、この時までは子弟の関係が続いていたと思われる。

 頼縁についは、三宝院伝法血脈に「第廿八代祖頼縁法印徳行幷附法弟子 頼縁法印鎌倉佐々目谷居住也。自弘安二年至永仁三年於根来寺中性院随頼瑜法印傳事 相之源極。習教相之淵底之人也。」とある。頼縁の史料はあまり他に無い、真福寺文庫撮影目録上・下巻にある奥書から年表として作成した。これより推定する と、頼縁は建長五年(一二五三)の生まれであろう。儀海とは二十七歳も離れており親子ほどの差がある。

 頼縁に関する真福寺文庫撮影目録に見られる史料を次に挙げておく。



健治三年(一二七七)六月比為伝法院御社堅義記之了 堅者縁成幡房公 改名頼縁法印

判得略云 抑堅者昔在二明宗聚蛍雖年舊今入之密室積雪猶日浅然今聞决両條之疑問鴻写之仲天見遣五重之難勢似麒麟之駑鞭猶加重難定尤所滞歟付仲所答申者自証離言之秋月照権現垂跡之闇所問起者八識発心之春華開学侶讃仰之徳風両條共得分離分明申矣 一交畢

建冶三年(一二七七)十二月廿一日醍醐寺中性院書写了 求法沙門頼縁 交合了

永仁二年(一二九四)甲午臘月廿九日巳時書写畢於根来寺依播磨阿闍梨御房誂首尾九ヵ日之間三巻抄所馳筆也 同三年正月四日交点畢 金剛資頼縁

永仁二年(一二九二)甲午臘月二十九日巳時書写畢於紀州根来寺依播磨阿闍梨御房吾

首尾九ケ日之間三巻抄所馳筆也 仁恵 同三年正月四日交點畢 金剛資頼縁

永仁二年(一二九四)甲午十二月二十三日於紀州根来寺書写畢金剛資頼縁

永仁三年(一二九五)正月十三日於根来寺中性院書写畢金剛仏子頼縁

永仁三年(一二九五)正月二十一日於根来寺中性院書写了 金剛資頼縁

永仁三年(一二九五)正月廿五日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁

永仁三年(一二九五)二月五日於根来寺中性院書写了 金剛仏子頼縁

永仁三年(一二九五)季春六日紀州山崎庄池尻里於教廻時書写畢 金剛資頼縁

永仁三年(一二九五)乙未二月六日於根来寺中性院書写畢頼縁

永仁三年(一二九五)乙未閏二月六日於根来寺中性院書写畢 頼縁

永仁三年(一二九五)乙未二月九日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁

永仁三年(一二九五)乙未二月二十日於根来寺中性院拭老眼所書写之 金剛資頼縁

永仁三年(一二九五)乙未二月廿五日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁 

永仁三年(一二九五)乙未二月二十五日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁

永仁三年(一二九五)後二月廿六日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁

永仁三年(一二九五)乙未二月卅日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁

弘安元年(一二七八)九月十七日於深雨中加点畢 金剛仏子頼瑜(中略) 金剛資頼縁

弘安六年(一二八三)七月十五日於高野山聖無院書写畢 金剛資頼縁卅

弘安六年(一二八三)九月九日於高野山中性院書写畢 金剛仏子頼縁三十

弘安六年(一二八三)九月九日於高野山中性院書写畢 金剛仏子頼縁

弘安六年(一二八三)十一月十四日於高野山聖無動院書写畢 金剛仏子頼縁三十

弘安六年(一二八三)十二月廿七日於高野山聖無堂院書写畢 金剛仏子頼縁卅

弘安七年(一二八四)四月廿八日於金峯山書写畢 金剛仏子頼縁生年卅二

弘安九年(一二八六)五月七日於高野山実相院書之畢 金剛仏子頼縁

弘安九年(一二八六)五月廿九日於高野山大伝法院之内中性院書写畢 頼縁

弘安九年(一二八六)六月十三日於高野山大伝法院中性院書写畢 執筆頼縁卅才

弘安九年(一二八六)六月十四日於高野山大伝法院内中性院書写畢 金剛仏子頼縁



儀海は頼縁を先師と記しており、鑁海については師主と記している。鑁海は慈猛の法弟で審海とは兄弟弟子である。審海は下野薬師寺より忍性に懇願されて、称 名寺に入寺した経緯がある。文永四年(一二六七)八月のことである。忍性の高弟とされているのは忍性が小田氏の所領筑波郡三村郷の三村山極楽寺に滞在し た、建長四年(一二五二)から弘長元年(一二六一)の間に子弟の関係になったのであろう。忍性は北郡小幡(八郷町)の宝薗寺をはじめ、北条氏所領の片穂荘 の東城寺や信太荘宍塚(土浦市)の般若寺にもその影響をおよぼした。三村寺に建長五年九月十一日の日付をもち「三村山不殺生界」と刻された結界石を残した のをはじめ、般若寺、東城寺などにも同様の結界石を立てている。

馬淵和雄氏は『鎌倉大仏の中世史』で河内鋳物師や石工の集団を関東に連れてきたのは忍性であろうとされている。鋳物師は鎌倉大仏の鋳造や梵鐘の製作にあた り、大和の大蔵派石工集団は結界石や五輪塔の製作ばかりでなく、全国各地の板碑の爆発的な発生にも関与していたとおもわれる。

鑁海についての真福寺文庫撮影目録上・下巻による史料は次のようである。

弘安五年(一二八二)三月廿四日於下□薬寺客殿北面寮書写了 乗海 同六年八月十二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海

干時弘安七年(一二八四)三月十五日感得之納箱底不可令披露之旨可任本記者也 小比丘鑁海 同卯月廿二日午尅写之畢即時一交了

正安四年(一三〇二)正月廿八日写之了 年歳五十満拭老眼写之単為令法久後見感之耳 鑁海

正安四年(一三〇二)孟春二十三日己時於常州真壁成福寺書写畢為令法久任拭老眼写之乞後見感之多年歳 (梵字二字)(鑁海ヵ)

文保三年(一三一九)五月十日於[下]野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀

    海

文保三年(一三一九)四月十一日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写了権律儀海

文保三年(一三一九)四月十一日於下野国小山金剛福寺賜主鑁海ノ御本書写畢 儀海

文保三年(一三十九)四月十二日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀海

(梵字四字)貫玉鈔 下州小山金剛福寺鑁海作(奥書)



瑜祇経法 下州薬師寺慈猛上人草本(梵字五字)一怗(奥書)

奥題名下ニ(梵字)師草本也者下野国金剛福寺開山鑁海之先師同国薬師寺長老慈猛上人之作也 干時観応三年(一三五二)五月二十一日於高幡不動堂以鑁海資儀海之本書写了 金剛仏子宥恵(梵字六字)五大虚空蔵念誦次第(梵字)一怗(奥書)

弘安五年(一二八二)三月廿四日於下州薬寺客殿北面寮書写了 乗海 同六年八月十二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海

 延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海



 瑜祇経眼目鈔 一怗(奥書)

嘉元二年(一三〇四)六月十九日書写畢 鑁海

 延慶三年(一三一〇)七月十五日書写畢 儀海

 延文六年(一三六一)三月七日於武州多西郡河口宿坊書写畢了 執筆良慶



顕密問答鈔下 一冊(奥書)

弘安五年(一二八二)三月二十四日於下州薬師寺客殿北面寮書写畢 乗海 同六年八月二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海

 延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺 儀海

 文和三年(一三五四)甲午五月二十八日於同州高幡不動堂書写了 宥恵



名月抄 一巻(奥書)

文保三年(一三一九)四月十二日於下州小山金剛福寺賜御自筆本書写了金剛資儀海四十

 応三年(一三五二)黄金十八日於武州高幡不動堂虚空蔵院書写了 金剛仏子宥恵四十一

 相承次第 一冊(奥書)

相承次第 大師 真雅 源仁 聖宝 延敒 壱定 法蔵 仁賀 真興 第三重可伝授

之付法只一人也 久安二年(一一四六)八月十三日記之 沙門源運

正和四年(一三一五)乙卯十月晦日於下州足利小俣鶏足寺奉授干鑁海上人畢 頼尊

文保三年(一三一九)己未正月十四日於常州真壁成福寺奉授権律師儀海畢 鑁海

観応三年(一三五三)壬辰三月二十九日於武州高幡不動堂虚空蔵院奉授権律師宥恵畢

     儀海法印

 延文三年(一三五八)戊戌十月廿四日於尾州長岡真福寺奉授権律師宥円畢



儀海 方虚空蔵院儀海の相伝にして伝授せる法流に名づく。随って虚空蔵院儀海法印方・虚空蔵院方・武蔵方等とも名づく。これに二流あり。

(一) 報恩院流(三宝院流末流)の異相承にして、虚空蔵院儀海を祖とする。諸流秘蔵鈔に挙げる印信は四通にして、第一通伝法印信(二印二明初金後胎)、第二通伝 法潅頂相承(紹文不等葉)、第三通伝法潅頂血脈、第四通第二重(一印二明)なり。憲深・實深・頼瑜・頼縁・儀海・能信・信瑜・任瑜・政祝と相伝せり。→報 恩院流

慈猛意教流(三宝院流の末流)の異相承にして、虚空蔵院儀海を祖とする。この法流は慈猛房良賢の付法鑁海に就きて相伝せる法流なり。諸流秘蔵鈔には三通の 印信を挙げる。第一通伝法汀秘印(紹文にして不等葉)。第二通伝法汀秘印(両部二印二明初金後胎)。第三通伝法汀血脈にして、成賢・頼賢・慈猛・鑁海・儀 海・宥恵・信瑜・任瑜・政祝と相伝せり。→慈猛方。