戦国流転 岡田の御厨 | たろうくん(清水太郎)のブログ

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八王子の夕焼けの里でniftyの「清水中世史研究所」(八王子地域の中世の郷土史)とYahooで「清水太郎の部屋」として詩を書いてます。

戦国流転 岡田の御厨

  岡田の御厨

 渡辺世祐氏は『国史論叢』の「十三、戦国時代の伊勢神宮」において丁〈岡田の御厨〉と題する項目がある。この内容については従来あまり触れられていないと思われるので次にあげておく。

「東京付近の御厨のことを述べた機会に、今一つ注意しておきたいのは武蔵岡田の御厨である。御厨は学者に残されたる問題であって、今以てその所在は明らかでないが、八王子市の西にある恩方の地がそれではあるまいかと思う。何れにせよ恩方の氏神が八王子権現であるのは注意すべきことである。そこで八王子権現と神宮と如何ような関係にあるかということが問題になって来る。長寛勘文や江談抄などに拠れば平安時代の末期には紀伊熊野社と神宮とは名は異なるもその実相は同一であるとの考えが広く信ぜられていた。そして内宮は熊野本宮、外宮は新宮、荒祭宮は那智社に同じであって神宮と熊野社とは表裏一体を成していると説かれていた。この考え方が基となり熊野社を勧進した八王子権現は矢張神宮を祀ると同様であると信ぜられた。そのために八王子権現が産土神として恩方の地に祭られたのは、これ御厨の中心地であるからである。そして恩方は御厨である岡田が転訛したのであろうと思われる。」

倉員保海氏は「八王子上案下の熊野宮旧蹟について」(『多摩のあゆみ』第二十七号)の論文を発表している。岡田御厨を考察する際の参考とさせていただく。

現在の熊野神社は和田峠へ登る道の右上の小高い所にあり、安下部落の鎮守社として小規模な社殿を残すだけである。しかしこの神社について地元には、往時は恩方全域を支配する大きな神社であったという言い伝えがあり、「明徳二年(一三九一)小沢石見が当所高茶の嶺に祭る、故に社地を本宮と称う、後、慶長年間野火の為焼失す、同十四年社殿を阿奈沢に建設す、老人伝言に、往時一の鳥居が神戸に在りて之を掌る鳥居、神主と伝える者も亦附近に在りしと」記している。新編武蔵風土記稿に次のようにある。

安下熊野宮之禰宜役并二百文屋敷於末代不可

有相違者也 仍如件

   同高茶野丁

   天文廿壱年八月十九日   花押

      禰宜彦次郎

戦国期の天文廿壱年(一五五二)の頃、安下熊野宮と高茶山の重要性を認識した領主(北条氏か大石氏ヵ)の意図を察知することができる。軍事的に考えれば、和田峠の浅間社、高茶の熊野宮、高留愛敬坂の住吉(宮尾)社を結んで安下路の掌握をはかり、本山系(聖
護院)の修験者を重用しようとする戦国大名の体制がうかがえよう。東国の本山派修験については道興准后が文明十八年(一四八六)に巡行した記録の『廻国雑記』に記されているが、室町末期から当地方に熊野詣を組織して勢力をはった。

福生半沢坊(福生市今熊)の修験を触頭として、覚円坊は多西の各地の霞下を集合した。そして、八王子城の合戦に人質を取られ参戦して討死した先達もいた。

浅川宮諏訪大明神御縁記は享保拾年(一七二五)乙巳春卯月に、鈴木左京武豊によって書ものである。そのなかに「……西方白虎守護神安下郷熊野大権現とす。……」の記述がある。この安下熊野本宮を通じて由井郷の人々、目黒掃部助・関山弥五郎・右京等は熊野新宮に勧進をおこなったのであろう。