大正時代の旧制小松中学と六代目 その15(細野燕台先生) | まつぼっくりのつぶやき

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細野(ほその)燕台(えんたい)先生』


 大正十一年、講習会で金沢へ行った時に、東京高等師範の先輩から、

「珍しい本があるが、相当な知識があるものしか読めない本である。君の学校の大島先生なら読めると思うので、教えてもらえ」と言われ、カバンから四・五十枚の和紙の写本を出し、私に渡した。全文漢字の見事な筆跡であった。

 大島先生は私と机を並べて勤務をしていて、地位や名誉に興味を持たず、中学時代が人生の最も大切な時期であるということから、中学の教師として力を尽くすことが自分の天職であるという信念の先生であった。

 さらに、大島先生は毎朝お宅から水を入れた鉄瓶下げて登校され、自分専用の茶器に煎茶を点て楽しんでいた。私も影響を受け、自分用の茶器を用意して、見よう見まねでやった。


 煎茶に関する知識を私は大島先生から伝授された。


 その大島先生に、研修で貰った写本を見せると、「これは、支那の有名な珍本である。これは普通の漢文と違うから私にもわからないところがあるが、希望者がいれば一緒に勉強をしてもよい」と私に語ってくれた。

それからしばらくしたある日、ドクトル小林が私の家に来た時にこの話しをして本を見せると、「『漢講会』を催そう」と言い、その本を預かって帰った。


その後、ドクトル小林は二十五・六部の写本を作った。

 最初、学校の先生数人と病院の先生数人とで、私の家の二階で大島先生からの講義を受けた。


 普通の漢文の本では出てこない語句があって大変興味深いものであった。


 そこで、大島先生から「細野燕台(泉鏡花や徳田秋声の同窓生、魯山人の育ての親とも言われ、後の三越百貨店美術顧問という中国文学の大家で漢詩文に詳しい先生を招くことにしたいと提案があり、皆で賛成をした。

細野先生は、煎茶道を極めており、魯山人や数々の工芸職人をかわいがられている方であり、人望の厚い方としても有名であった。


いよいよ、細野先生の講義が始まった。近所の芸妓衆も仲間に入れたので、出席者が増え、三回ほど来てもらった。


その後は細野先生が上海で手に入れた本で、さらに講義が続けられた。

 煎茶と漢文が大島先生と細野先生を結びつけていることに私は大変興味を持つとともに、私も彼らの域に近づこうと努力をした。



《写真中央が細野燕台》
 


《伊東深水画・細野燕台》


《泉鏡花》



《魯山人》