死刑に関わった裁判員がマスコミに取り上げられるようになった。



彼等の情緒が不安定になるのは、ある程度、理解出来る。

実は良く分からないまま人を殺す判断をした。

その十字架は生涯ついて回るだろう。



それを回避、いや・・感じず済むとしたら、今後も多数の死刑が成立し、その判断をした民間人の数がやたら増えた時かも知れない。



居酒屋なんかで「あの時は大変だったよね~」などと談笑する輩を多く見かける事になるかも知れない。



実際、高齢になった戦争体験者なんかにも同じような輩は存在する。




ネット上で飛び交う「死刑当然」と言うような声は、日増しに高くなっているようにも思える。





裁判員制度の目的は

1、裁判を身近にする。
2、裁判を分かりやすくする。
3、裁判への民意の反映
4、裁判や司法への信頼性の向上

等らしい。


上記の目的に関しては、裁く側である必要が無い。


裁判官は基本的に「法の番人」であり、法は予め予測される事象・事件に
対し作られたルールだが、当然それぞれ固有の事件に完璧に合致適応する筈も無い。



裁判官はその網の隙間を、客観的に判断する役割に過ぎない。
その意味では、法自体の成立過程や目的を理解している事が不可欠だ。
ある意味、彼等はその分野のエリートだ。




ガキの頃、クラスに一人二人は、優秀な奴がいる。
仮に難易度の高いテストの回答を求める時、彼だけが正解する事も
少なくないだろう。



この例えで言うと裁判官は、この分野において優秀な奴なのだ。
裁判員やマスコミで言う民意は、その他大勢のクラスメイトかテストさえ受けていない外野と言う事になる。



言うまでも無く、これが人の生死を決するような事象の場合、多数決は
多大な悲劇を生み出すに決まっている。


民意を反映すると言うのと、多数決は、同じ事では無い。



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裁判を分かり易くする為には、法そのものを分かり易くするに限る。




民意を反映する目的、或いは道徳的啓蒙が適うとすれば、むしろ
被告側、弁護側に民間人が立つ事こそ重要だと考える。



凄惨な事件の背景を深く理解し、極めて冷淡な法に対し、

情緒的な感覚を持って対応する。



現行の裁判員は既に見直す時期に来ている。



先の目的の為なら弁護員制度に改める事が最も望ましい。



もし裁判員制度を継続するならば、同時に弁護員?をも担う義務を負わせる



べきだと考える。







我々は、裁く側のみに居る事は出来ない。



同時に被告席にも座ることになるのだ。