オレンジ | 神原聖オフィシャルブログ「神原聖 写真のしゃしん」Powered by Ameba

オレンジ

 

    




    常連客が弾く電子ピアノの音色が、いつもより少し大きめの音量でバスの店内に響き渡っている。三浦岩男はようやくフードとドリンクを一通り出し終えた。平日の夜中の二時だというのにバスの中は人で溢れかえっている。入りきれない客の笑い声が外から時折聞こえてくる。常備しているブランケットを貸し出したが、三月の海風は寒いだろう。一時間ほど前にバスの隣にある簡易トイレを使ったが、少し震えて帰ってきた事を三浦は思い出していた。


「マスター、タクシーお願いしていいですか」
奥のテーブル席から酒でだいぶ気分が良くなった客の一人が言った。
「はーい。もう呼んじゃっていいんですか」
「うん、お願いします」

 今日が最後の営業日だという事は数人にしか知らせていなかった。それも偶然、相手からそういう話が出たので仕方なく伝えた。なのにこの一週間、たくさんの客が三浦に会いに来た。最後にもう一度バスバーの雰囲気を味わいに訪れていた。客の思い出話をたくさん聞きながら、三浦もそれに合わすようにいろいろなことを振り返ることができた。閉店の事を客はさほど驚いていなかったし、理由を聞かれることもなかった。

「マスター、ご馳走様でした。なんか寂しいな」
タクシーの運転手が声をかけに来て、客が席を立った。
「どうもありがとうございました。足元お気をつけて」
いつもと同じ挨拶で三浦は客を見送った。

 本牧埠頭の一角で自由に古びたバスを二十年近く駐車し、バーを営業させてくれた市に三浦は心から感謝をしていた。そして、ここ一年近く続いた市の職員からの必死な説得にようやく諦めが付いた。その一方、この青いバスが埠頭に止まっている自然な情景がなくなっても良いのかと悔しさのような感情も湧いていた。オープンの準備を始めると、どこからか集まる野良猫たち。耳を澄ますと聞こえてくる波の音。潮の香り。十代の頃憧れた石原裕次郎の映画に出てきそうなバーのように改装した店内。客の顔が見えるか見えないかぐらいに抑えた薄暗い灯り。その光が照らす装飾品の数々。実際、バスバーはドラマや映画の撮影で何度も使われるほど、横浜では知る人ぞ知る伝説的なバーであった。店を閉めるのもそうだが、三浦は自分の居場所が無くなる不安と悲しみを感じていた。以前、酔って客に「僕はバスの中で死にたいんだ」と笑いながら言ったことがあったが、満更冗談ではないのかもしれないとあらためて思った。

 三浦はカウンターに座っている客から少し見えにくい場所で一服した。窓の外に見えるオレンジ色の夜空は、気分によって綺麗だったり不気味だったりする。今日の自分は果たしてどちらにあてはまるのだろう。そんな事を考えていると電話が鳴った。

「マスター?」
「はい」
「鈴木です。いまから四人入れますか」
「テーブル席、ちょうど空きました」
「それじゃ、十五分後に伺います」
「はい、お待ちしています」

 いつから鈴木一平に敬語を使うようになっただろう。鈴木は昔、バスバーで三浦と一緒に働いてくれた唯一のバーテンダーであった。二十歳をすぎたばかりの鈴木は、教える事を素直に受け入れる清々しい青年だった。鈴木が元町で自分の店を始めると聞いた時は、自分の事のように三浦は喜んだ。

 バスの奥にあるテーブル席を片付けながら、外で飲んでいる客の事をすっかり忘れている自分に気がついたが、タイミングよくお勘定を頼まれたので安心した。



 バスを揺らしながら満席のカウンターを抜け、鈴木たちはテーブル席についた。

「いいですね、ここ」
初めて来た鈴木の友人が言った。
「ここが僕の店の原点です」
鈴木は嬉しそうに言った。そういえば彼の店もバスバーに負けないぐらい暗いのである。
「マスター最近耳が遠いので、なるべく大きな声で注文してあげてください」
一緒にいた三人はどれぐらい大きな声を出すべきなのか少し戸惑った。

「このバスでマスターと北海道ツアーをしたんです」
バスの話をしていると、鈴木が切り出した。
「本当に? なんだか信じられない」
鈴木の彼女が言った。入り口で天井から捲れた木の薄い板におでこをぶつけたばかりであった。こんなに古びたバスが動いている姿がどうしても想像できないようだった。
「二十日間ぐらいだったと思うけど、そういえば旅日記を書いたっけ。毎日の出来事や感じたことをワープロに書き留めたりして。懐かしいな」
「鈴木さん。僕その日記、読んでみたいです」
もう一人の男性が興味深そうに言った。
「なんだか恥ずかしい感じもするけど、マスターにプリントアウトした物を渡したから持っていると思うよ」
「えー、鈴木さん聞いてみてください」
どうやら本当に読みたいようなので、鈴木は早速、三浦に声をかけた。
「マスター!」

 鈴木の大きくて通る声を初めて聞いた他の三人はすっかり驚いていた。



 最後の客が帰る頃には朝日が薄っすらと見え、オレンジ色の空がゆっくりと青く変わり始めていた。三浦はダウンベストをパーカーの上から羽織り、外にある発電機のスイッチを切った。コンセントからプラグを抜いた時、鈴木から頼まれた北海道旅日記の事を思い出した。もう十五年以上前に鈴木がくれた日記であったが、保管してある場所はしっかりと覚えていた。埃をかぶった黄色いクリアファイルはすぐに見つかった。

 日記には様々な思い出が詰まっていた。バスで本牧埠頭を後にし、有明フェリーを目指したこと。フェリーの中で寝付けずに二人で甲板に上って、缶ビールとカップ酒を飲んだ夜。札樽自動車道でクーラーのパイプがタイヤに絡み、左後ろタイヤがパンクした惨事。石原裕次郎記念館の副館長に頼んで、バスをすぐ隣の空き地に止めて記念館を見ながら乾杯したこと。双子のミュージシャンが歌ってくれた「二十四時間の神話」や「マイ・フレンド」という曲。根室半島の納沙布岬で「返せ北方領土」という字をあちらこちらで見た光景。満天の星の下でのバーベキュー。苫小牧出港前夜に集まってくれた出逢った人々との別れ。

 日記を読み終えると、三浦の胸はいっぱいになった。これで本当に終わりなんだ。

 日記とは別に、一枚の紙がファイルに入っていた。それは当時、鈴木が日記と一緒に渡してくれた手書きの手紙だった。


一九九八年一月十四日(水)

マスター 五十歳の誕生日おめでとう!

ここからはワープロでは味気ないので手書きで書くね。

この北海道旅行の日記はいつかマスターに読んでもらいたいと思いながら、はや五年が経ちました。今回がいい機会だと思ったので贈ります。これを読んで、あの旅のことを思い出し懐かしんでもらえれば嬉しいです。

本当にあの旅は最高だったよね。未だかつて、そして今後もあんなに素晴らしい旅はまずないと思います。

あの旅行しかり、マスターにはこれまで数多くのプレゼントをもらいました。おいしいお酒の飲み方、バスを通して得た沢山の仲間、ルークとの出会いと数えあげたらきりがないです。心から感謝しています。

なかなかこういう機会ってないので、思う存分言っておきます。いつも本当にどうもありがとう。そしてこれからもよろしくお願いします。

おめでとーーーーーう。

鈴木


 すっかり静かになったバスは朝日に照らされ、まだまだ動けるよと三浦は声をかけられている気がした。

 

 

 

神原聖

 

校正   鈴木素子

協力   高上未菜