短編小説「そっくり」(2)終
それは、何の予告もなく、ある日突然やってきた。
その日、美奈は、いつものように出勤し、売り場で行われる朝礼に出ていた。
店長の訓示に始まった朝礼は、普段どおりに進んでいった。
そして、そろそろ解散かという時になって、再び店長が口を開いた。
「最後に、皆さんにお知らせがあります。坂下君」
店長に呼ばれた坂下は前に出る。
「えー、坂下君は、今月いっぱいで退職することになりました。小説家としてデビューすることが決まったそうです」
店長のその言葉で、店内は静まり返った。
いや、実際にはざわついていたのだが、そのざわめきも、坂下の挨拶も、美奈の耳に届くことはなかった。
午後三時。
美奈は一人、休憩室に向かっていた。
いつもなら、休憩室に、誰か話し相手がいて欲しいと思うのだが、今日だけは違った。
とにかく、一人になりたい。
誰もいて欲しくない。
そう願いながら、美奈は、休憩室のドアを開けた。
しかし、中には先客がいた。
一人でテレビを見ている坂下が。
「休憩か?」
美奈に気付いた坂下が声をかけてきた。
「うん」
「・・・これ」
そう言いながら、坂下は、ポケットから取り出した小銭を美奈の前に差し出した。
「何よ、これ」
「おごるよ、コーヒー。色々ご馳走になったから」
「何よ、今頃」
「チャンスがなかったから。誰かに見られて、変に誤解されても困るだろ」
美奈は、それを受け取り歩き出した。
そして、自動販売機の前に立った美奈は、坂下にもらった三枚の硬貨を、しばらくの間じっと見つめていた。
振り返ると、坂下は、こちらに背を向けている。
それを確認した美奈は、その硬貨を、そっと自分のポケットにしまいこんだ。
そして、自分の財布からお金を取り出しコーヒーを買った。
コーヒーを手にした美奈は、坂下の向かいの席に座った。
「どうやって決まったの?デビュー」
「前に賞に出した小説があって、で、その賞には落ちたんだけど、別の雑誌の編集長がその小説読んで、気に入ってくれたんだよ」
「うれしい?プロになれて」
「まあな。連載っていってもいつ終わるか分からないし、原稿料も安いから、素直には喜べないけどな」
「連載なの?」
「ああ」
「そんなので仕事辞めて、大丈夫なの?」
「何とかなるだろ。一人だし、多少は貯金もあるし」
「そう・・・」
「やっとつかんだチャンスだから、集中したいんだ。後悔したくないしな。あの時仕事辞めとけばなんて」
「・・・」
「今の仕事やりたくてやってるわけじゃないし」
「なんていう雑誌に載るの?」
「え?言っただろ、俺。朝礼のときに」
坂下は、不思議そうに言った。
「ごめん、聞いてなかった。考え事してて」
「文英社のスピーク」
「いつから?」
「12月9日」
「二ヵ月後ね。だったら、まだ、仕事辞めなくてもいいんじゃないの?出来上がってるんでしょ、小説」
「書き直さなきゃいけないんだよ。枚数も足らないし」
「そう・・・。ペンネームは?」
「まだ決まってない」
「タイトルは?」
「気が済むまで」
美奈が質問するたびに。
そして、坂下が、その質問に答えるたびに。
それまでは、おぼろげにしか見えていなかった辛い現実が、はっきりと、その姿を美奈の前にさらけ出していった。
送別会の席で、坂下は笑っていた。
そんなにうれしいんだろうか、プロになれることが。
私に会えなくなることは、なんとも思ってないんだろうか。
坂下の笑顔が、美奈の胸を悲しく締め付けた。
酔っ払いの集団が、夜の街を歩いていた。
集団は、二次会の店に向かっている。
やがて、その集団の中の一人が、誰にも気付かれることなく離脱して行った。
そして、それを追うように、もう一人。
「大丈夫なの?主役がこんな所にいて」
一人で公園のベンチに座り、タバコを吸っている坂下に、美奈が声をかけた。
「かまやしないよ。連中は、酒が飲める口実が欲しいだけなんだから」
「・・・」
「現にこうやって、誰にも気付かれずに、こんな所でタバコ吸ってられるのがいい証拠だろ」
「私は気付いたわよ」
そう言いながら、美奈は坂下の隣に座った。
「お前は変わってるからな」
「どこが?」
「アルバイトの女の子かばってみたり、俺みたいな奴の後ついてきてみたり」
「そうか、変わってるか・・・そうかもね」
「そろそろ帰った方が良いんじゃないのか。みんな心配してるだろ。お前は俺と違って、人気あるんだから」
「・・・」
「それに、もし、こんなところ誰かに見られたら」
「いいわよ、別に・・・それならそれで」
美奈は、遠くを見つめながら、つぶやくように言った。
「変だな、今日のお前」
「・・・」
「何かあったのか?」
「・・・うん・・・ちょっとね。悩み事が」
「どんな?」
美奈は、すぐには答えようとはしなかった。
「・・・プロポーズされたの。上田君に」
美奈は、坂下の顔を見た。
一瞬、こわばったようにも見えたが、気のせいかもしれない。
暗さのせいではっきりしなかった。
「何で悩むんだよ。好きなんだろ、そいつのこと」
「うん」
「じゃあ・・・」
「もう一人いるから」
「何が?」
「他に好きな人が、もう一人・・・」
「・・・」
「どうしたらいいと思う?」
「俺に聞かれても・・・」
「分かると思うけどな・・・坂下君なら」
「・・・」
「その人も、小説家目指してるの。坂下君みたいに」
「・・・」
「参考にするから、聞かせてくれない?男の人の気持ち」
「・・・」
公園のブランコが、風に揺れた。
「そいつは、お前の事どう思ってるんだ?」
「それが分からないから聞いてるの」
坂下は、タバコを取り出し火をつけた。
そして、大きく煙を吐き出してから口を開いた。
「もし、そいつがお前の事を好きだったら」
「・・・」
「上田と結婚して欲しいと、思うんじゃないかな」
「何で?」
「好きな女には、幸せになってもらいたいからな」
「何でその人とだと、幸せになれないの?」
「なれないって訳じゃないけど、確率の問題だよ」
「お金なんてなくてもいいじゃない。一緒に苦労すれば」
「お前は良くても、相手はどうかな。そんなお前の姿見るのは、辛いんじゃないかな」
「・・・」
「お前には、笑顔が一番似合うから」
そう言って坂下は、携帯用の灰皿に短くなったタバコを入れた。
「それでいいの?・・・坂下君は」
「・・・」
「辛くないの?」
「・・・いいんじゃないかな、それで・・・もし俺が、そいつだったとしたらな・・・」
「・・・」
「現実は時に、醜く姿を変えるけど、思いでは、いつまでもきれいなままでいてくれるからな」
「・・・」
坂下は、腕時計を見て立ち上がった。
「もうこんな時間か・・・どうする?二次会に戻るか?家に帰るんだったら、駅まで送っていくぞ」
坂下がそう声をかけたが、美奈は、うつむいたまま動こうとはしない。
「どうする?」
坂下がもう一度聞くと、美奈は、やっと口を開いた。
「なに格好つけてんのよ・・・馬鹿」
「・・・」
「一生、一人でいればいいじゃない!」
美奈は、叫ぶように言って、そのまま走り去って行った。
美奈は、ただ、仕事をしていた。
坂下のいなくなったこの職場で、ただ、仕事をしているに過ぎなかった。
坂下は、昨日で仕事を辞めている。
一言も話さなかった。
あの送別会の日から昨日まで、美奈は、坂下と、とうとう一言も話さなかった。
そして、今日の昼、美奈は一本の電話をもらった。
「そろそろ返事くれないか。8時に、いつもの店で待ってるから」
電話の向こうで上田が言った。
美奈は、まだ迷っていた。
どうしたらいいのか。
どうすればいいのか。
散々迷った挙句に、美奈は結論を出した。
もう一度会ってから決めよう。
もう一度だけ、坂下に会ってから・・・
そう決心した美奈が、なんとなく外に目を向けると、店の前の道を、一台の引越し業者のトラックが通り過ぎて行った。
久しぶりだった。
この感触を味わうのは。
仕事を終えた美奈は、坂下のアパートの鉄製の階段を上がっていた。
そして、坂下の部屋の前にたどり着いたとき、美奈の胸に不安がよぎった。
部屋の明かりが消えている。
美奈は、その不安を打ち消そうと、力強くドアをノックした。
一回。
二回。
三回。
しかし、ノックの音はむなしく響き、その役目を果たすことなく消えていった。
その時、不意に、隣の部屋のドアが開き、四十代くらいの女性が現れた。
「あの・・・」
「そこの人なら引っ越したわよ。今日」
「どこに行ったかは・・・」
「さあ・・・」
それだけ言うと、その女性は、さっさと美奈の横を通り過ぎて行った。
後に残された美奈の脳裏を、今日店で見た、引越し業者のトラックが横切って行った。
「この電話は、現在使われておりません」
駅への道をたどる途中、美奈が携帯で坂下に電話をかけてみると、そんなメッセージが流れてきた。
機械的なそのメッセージは、いつにも増して冷たく感じられ、美奈の心に深く突き刺さった。
当然、行き先など、誰にも教えていないだろう。
美奈と坂下を結ぶか細い糸が、坂下によって断ち切られてしまっていた。
その時、道端にある缶コーヒーの自動販売機が、美奈の目に映った。
その前に立った美奈は、ポケットから、大事そうに三枚の硬貨を取り出した。
「おごるよ、コーヒー」
いつかの坂下の言葉を思い出しながら、美奈は、その三枚の硬貨を強く握り締めた。
そして、一枚ずつ、自動販売機に投入していく。
「さようなら」
と、つぶやきながら。
「いい加減捨てろよ、こんな物」
「いいじゃない、まだ使えるんだから」
「恥ずかしいだろ。誰か来て見られたら」
「大丈夫よ。そういう時は、ちゃんと他の使ってるから」
上田は、その取っ手の取れた鍋を見るたびに、そう文句を言ってきた。
その度に、美奈は、そう言い返していた。
美奈は、どうしても捨てる気になれなかった。
取っての取れたその鍋に、坂下の面影を映し出していたから。
美奈が上田と結婚してから、十年が過ぎていた。
そして、坂下と会えなくなってからも。
あの日、美奈は上田に返事をした。
それは、簡単な選択だった。
それまで二択だった問題が、一択になったのだから。
もう、迷うこともなかった。
今ではこうして、八歳になる一人娘の良美と三人、幸せに暮らしている。
これで良かったんだろうか。
これで・・・
坂下が、今どこで何をしているのか、美奈は知らない。
十年前、坂下の小説は、あの雑誌には載らなかった。
というより、出版社に問い合わせてみて分かったのだが、そんな話は元々なかったらしい。
坂下は、仕事を辞めると決めた時、すでに、美奈の気持ちに気付いていたんだろうか。
そのうえで、美奈に気を使わせないために、あんな嘘までついて身を引いたんだろうか。
今となっては知りようもない。
せめて、坂下の書いた小説だけでも読んでみたかった。
日曜日。
美奈は、娘の良美と二人、デパートに買い物に来ていた。
上田は、友人とゴルフに行っている。
特に、買いたい物があるわけではなかった。
二人分の昼食を作るのが面倒だったから、ここで一緒に済まそうと思っただけで。
「可愛いお嬢さんですね」
子供服を見ていた美奈は、女子店員に、そう声をかけられた。
「どうも」
「お母さんにそっくり。きれいになるんでしょうね、将来。お母さんみたいに」
きれいかどうかは別として、美奈は、確かによく言われた。
親戚や友人に、近所の人・・・
会う人ごとに、
「良美ちゃんは、お母さんにそっくりね」
と言われる。
そして、美奈自信もそう思っていた。
良美は日に日に、美奈に似てきていた。
美奈は良美と二人、停留所で、のんびりと帰りのバスを待っていた。
そして、手持ち無沙汰に辺りを見回していると、美奈の目に、それは飛び込んできた。
20メートルくらい先の路上で、本を売っている坂下の姿が。
横顔しか見ることはできないが、確かに坂下だった。
思わず歩き出しそうになるのを、美奈は必死で我慢した。
「良美ちゃん。ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
美奈は、良美の前にしゃがみ込んで言った。
「何?」
「あそこにね、白い服着た人が座ってるでしょ」
美奈は坂下を指差す。
「うん」
「あの人の所に行って、これで、あの人が売ってる本買ってきてくれない?」
と言って、美奈は、財布から二千円を取り出し、良美に渡した。
「一人で?」
「うん。お母さん、電話しなきゃいけないところがあるから」
「うん、いいよ」
良美は、初めて美奈にお使いを頼まれたのが嬉しかったのか、元気に走り出していった。
「気をつけてね」
美奈は、良美の背中に声をかけた。
美奈には勇気がなかった。
坂下と会う勇気が。
もし、会ってしまったら。
もし、話してしまったら。
自分がどうなるか分からなかった。
それが怖くて・・・
まもなく、良美は、坂下の所にたどり着いた。
すると、目の前にある映画館からどっと人があふれ出してきて、二人の姿は、完全に見えなくなってしまった。
不安げに見つめていると、やがて、その人ごみの中から良美が顔を出した。
両腕で、しっかりと坂下の本を抱きかかえながら。
その時、ちょうどバスが来て、美奈は、良美と共に乗り込んだ。
「はい、これ」
席に着くと、良美は美奈に本を差し出した。
「ありがとう」
美奈に本を渡した良美は、もぞもぞとポケットを探り出す。
そして、出てきた物は、美奈が渡した二千円だった。
「どうしたの?これ」
「いいって」
「どうして?」
「そっくりなんだって、私」
「そっくり?」
「うん。昔、大好きだった人に」
「・・・」
「おじさんが昔大好きだった人に、私がそっくりだから、お金はいらないって」
まもなく、バスは発車した。
そして、坂下の前に差し掛かると、良美が、坂下に向かって手を振り出した。
それに気付いた坂下も、笑顔で手を振り返した。
その目はいつしか、良美ではなく、美奈を見つめていた。
美奈は、良美に覆いかぶさるようにして、小さくなっていく坂下を、いつまでも見つめていた。
やがて、バスは交差点を曲がり、美奈は静かに腰を下ろした。
やっと別れることが出来た。
やっと、ちゃんと別れることが・・・
十年経って、やっと・・・
「どうしたの?お母さん」
「・・・」
「どうして泣いてるの?」
美奈は、良美の質問に答えることも出来ずに、ただ、じっと、坂下の本を抱きしめていた。