※自分の考えは別の記事に書こうと思います。
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たとえば、テレビゲーム(swichやPS4)をしていて手が放せないA君と日曜大工をしているB君が、同じ家の中にいるとしよう。ここで2つに分岐させてみる。
①A君がB君に一緒にゲームをしようと誘うとする。
②B君が手伝って(木を切ったり、ヤスリがけなど)と頼んだとする。
さて、①のA君と②のB君どっちが「自己中」だろう?
もう少し続けて考えてみる。
①の続き:③その後、B君はA君の誘いを受け入れ、一緒にゲームをした。
②の続き:④その後、A君はB君の頼みを断りゲームを続けた。
ここで、③のB君の対応は「自己中」ではない。としても問題ない(少なくともそのように考える人が多いはず)。でも、④のA君はどうだろう?これは「自己中」にはいるのだろうか?
まあ、「こんな一場面だけでその人物が自己中かどうかなんてわかんないだろ!」となってしまうだろう。しかし、「自己中」とは、なにもその人の性格や性質だけでなく、その時々の対応や行動についてもいえるのではないか?今回の場合、この、「対応」の自己中性について考えてみてほしい…
本題に戻る。さあ、このA君とB君それぞれの行動やそれに対する対応を見て、どれが「自己中」な行動、対応といえるだろうか。自分の考えは控えるとして、この問題について考えたとき、おそらく、多少なりとも自己中の程度について考えていると思う。自己中という言葉は、知らず知らずのうちに気づいている人もいるだろうが、抽象的である。抽象的な物事は、人によってその捉え方に差が生まれてしまう(例えば、美しいと一概にいっても、人によって美しいと感じるものは違う)。なので、先の問題において、自己中だ!という項目は人によって差があると思う。また、「自己中である。」「自己中でない。」という考えに至った過程も違うだろう。
ここまでの考えは、A,Bを客観的に見て考えてきた。では、主体的に考えてみるとどうなるだろう?また、具体的に考えてみようと思う。
たとえば、あなたと私が同じ空間にいるとする(もちろん、見ず知らずで、知り合いではない)。
私たちは今一階におり、階段を上がろうとしている。私は、大きな荷物(50kgくらいで、見た目も重そう)を持って、階段を上がろうとしている。あなたは今私の隣にいて、スマホでゲームをしながら、私と同じく階段を上がろうとしている。
この時、私があなたに手伝ってほしいと頼んだとする。
ここで、あなたは私をどう思うだろうか。自己中?それともそれとは違ったこと?考えてみてほしい…
さて、このあと、あなたの返事があるわけだが、
ⅰあなた「手伝うよ」
ⅱあなた「ごめん、無理」
ⅰのあなたの対応については、おそらく、自己中ではない。とした方がいいだろう。ⅱのあなたの対応はどうだろう?私から見てあなたをどう思うか、あなたの側から私のことをどう思うか。考えてほしい。
最後の問題。先ほどと同様に、1階におり、階段を上がろうとしている。違うのは、その場にいる人。1人はあなた。そしてもう一人は、あなたの友人だ。
あなたの友人は、大きな荷物(50kgくらいで、見た目も重そう)を持って、階段を上がろうとしている。あなたは今その友人の隣にいて、スマホでゲームをしながら、その友人と同じく階段を上がろうとしている。
この時、その友人があなたに手伝ってほしいと頼んだとする。
ここで、あなたはその友人をどう思うだろうか。自己中?それともそれとは違ったこと?これもまた考えてみてほしい…
そして、先ほどと同様、あなたの返事があるわけだが、
ⅰあなた「手伝うよ」
ⅱあなた「ごめん、無理」
ⅰのあなたの対応については、先ほどと同様、自己中ではない。とした方がいいだろう。ⅱのあなたの対応はどうだろう?あなたから見てその友人をどう思うか、あなたの側からその友人のことをどう思うか。考えてほしい。
補足:もしかすると、「自己中という発想がそもそもでてこないだろ!」という結論になった問題があったかもしれない。となると、自己中は意識さえしなければこの世に存在しないものなのではないか?でも、世の中には自己中(そういった人や、自己中心的という言葉そのもの)が溢れている。この「自己中」という言葉の線引きはどこで行われているのだろう?もしかすると、この「自己中」の線引きをしている人自身もが、「自己中」になってしまっているのかもしれないですね。
