人はあらゆるモノにせっせとタグをつけます。

出会ったこと全て、出会った人全て。

それを自分のやり方で分別して整理して頭の中にしまいこみます。

それはまったくもって当たり前の事で、
それができなかったら脳みそ溢れかえって検索不可になるわ、とっちらかったままで入れるはしからこぼれていくわでヤバいです汗

「客観的な事実」のタグと一緒に基本的な「わたし的評価」のタグもくっついています。

「OK!快」-------「ニュートラル」-------「NO!不快」/「保留」みたいな感じですかね。

このタグは「客観的事実」タグとは違って、その人それぞれのフィルターを通した評価で付加されるものです。

「価値観」というやつですね。

だから同じ「りんご」にくっついている評価タグが「YES!」な人もいれば「No!」な人もいます。

かつての私の人物評価フィルターは

社会人モード
「結果を出す」→○
「結果を出せない」→☓

プライベートモード
「楽しい」「色気がある」→○
「めんどくさい」「知的じゃない」→☓
みたいな感じでした。

自分自身も○であろうと最大限の努力をし、当然我が息子もそうなるようにと願っていました。

息子に「発達凸凹」のタグがついた瞬間は別にショックでもありませんでした。
あったのは「とまどい」でした。

私にとって「障害」カテゴリーは未知の分野であってひとくくりにまとめて「保留」につっこんであり
元々なんの評価も加わっていなかったからです。

診察時にいただいた自閉症についての小冊子を読んで、
はじめて”人生終了のお知らせですかい?ムンクの叫び”と思うほどのショックをうけました。

その小冊子に書かれてあった話はあまりにも私の願いとかけはなれていて
フィルタリングをするまでもなく、完全に「NO!」だったからです。

本やネットで必死に情報をあつめても、完全にオール☓☓☓でした。
(なんだかその頃はネガティブな情報ばかりでしたよ?探し方が悪かったのかな?)

ひっぺがそうとしました。
(診察の時に大げさにいったかもしれない。きっと間違いだわ)

見えないフリをしようとしました。
(私の子供がそんなわけないわ)
(私の母(息子の祖母)は今だにコレです。)

でもそのタグは「事実」を表しているだけのタグなので
ひっぺがして捨てることもできないし、
見えないフリをしてもなくなることもないのです。

そしてそのタグは生涯なくなる事はない。

絶望しないわけがないです。
苦しまないわけがないです。

もともとのフィルターがそういう”世間一般の絶え間ない刷り込み”に毒されていなかった人ならば
自分のフィルターが”ちょっと変だぞ?”と見据えることのできる強さをもっている人だったら、
我が子に障害があろうが、動じる事も悲しむ事もなかったのでしょう。

私のフィルターはかなり強烈なものでした。
努力したかしないかは関係ない。
運が良かった、悪かったは関係ない。運も実力のうち。
体調も精神状態も全ては自分で管理してコントロールするもの。
結果を出したものこそ正義。
(こわ・・え...完璧にACですあせあせ・・・>

これは跳ね返って、自分自身に対してもどでかい☓がつきました。
(なにしろ運関係なしですからね・・がっかり

だけど、息子の存在そのものについているのは特大の○なわけで。

その溝の深さといったら石を投げこんだら30年くらいは底に到達できないくらいです。

ならばこのタグは少しでも薄くならんもんか?
必死に消しゴムでこすり、修正液を塗り倒し。

私が療育に真剣に取りくんでいたのは
子供の為というより
この断崖絶壁を少しでも埋めたかったからだったんだろうなと思います。
もしかしたら橋がかかるかも?
もしかしたら見えないくらい薄くなるかも?

結果さえ出れば自分のどでかい☓も消えます。

でもそのうち、タグなんてついててもついてなくてもどっちでもいいや~と思うようになりました。
息子が笑っていきていけるようになりさえすればそれでいいやん?と。

「事実」タグは取り外すことができません。

でも、自分のフィルターは変えることができます。

自分のフィルターが間違ってるんじゃないのか?と疑うのはとても勇気がいります。

今まで信じていた事を否定するという事にもなるから。

ちょっと疑いを持ったところで、テレビで雑誌で、ご近所さんとの井戸端会議で

たえまなくあおられてますし。


でもいつも「本当にそうなの?」と問いかけてくれる存在がそばにいてくれると

いつのまにか「間違ってたわぷっ」と思える時がくるもんなんだなぁ~と思います。

間違っててもいいじゃない。人間だもの。ですねふにゃ

昔はこの方の言葉とかみて「ふっ。甘いのぉ~」と思ってました。
今は「深いのぉ~」と思ってます笑


ならば何を道しるべにしたらいいのか?と迷子になっているときに出会えたのが

エーリッヒ・フロムの本でした。「生きるということ」「愛するということ」

それまで薄々は感じていた「なんか変かも?」感が言葉を与えられてハッキリ見えました。

ぁ~コレだ~ぼのぼのと。


まだまだ学ぶことはたくさんたくさんあるけど、方向はまちがってないべ?と
思いつつ日々ぼちぼちと歩いております。

まぁ間違ってたらまた違う道を探せばいいんだし~人間だもの
ふにゃ