最近ふと思ったこと。
皆、自分の力で主体的にレールを作っていることは少ないんだな、と。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、会社・組織、サークルなどなど。
皆、やっていることは「環境を選ぶ」こと。
環境は色々提供してくれる。
教育、建物、給料、食事、仕事、エンターテイメント、友人etc。
いい環境を選ぶことは、自発性の欠如を促すのではないか、と思う。
アメリカは、きめ細かいサービスがしょぼい。
水周りの修理一つ取っても、遅刻する、工具がないと買い物行って戻ってこない、足元見て高い請求をしてくる、など等。
だから、自発性が発揮されるのかもしれない。
ガソスタでもスーパーでもセルフサービス、日曜大工はお父さんの甲斐性、職種選択という考え、起業の多さ、自分の意見をはっきりさせること、ナドナド。
日本のサービスは質が高い、と思う。
トイレのきれいさ、街の整理、レストランなどの待たせない工夫、コンビニ、携帯の機能豊富さ、車の
乗り心地、等等。
ただ、俺は便利さは求めるけど、提供された細やかな質の高さはたまーにでいい。
というか、満足度の高い最適な「環境」の単位があるのだろう。
皆で遊びに行くときは、ツアーに頼むより、自分で組み合わせる。
自由度が高いし、皆で協力する楽しさが出来る。
どうも、「環境」というものへの依存度が高いと居心地が悪いようである。
確かに選ぶのもいくつもの「環境」の組み合わせではあるけど、
もっと細分化して、最高だと思える「組み合わせ」を求める傾向にある。
また、「環境」に乗っかって、その上で自分の興味あることを消費するより、
「環境」を作ることにやはり興味がある様子。
国という「環境」、会社という「環境」、サークル・コミュニティという「環境」。
ただ、傾向が強いだけで、突出していないから、実際に自分で作るところまでは
いたっていない。
「モノ」を作ることにも興味強い。どちらが主にやりたいのか、正直わからない。
今の生活は、先人達の作ってきた「環境」と「モノ」の上に成り立っている。
だれがその「環境」「モノ」を作ってきたのかわからず使っている。
ただ、それでも「環境」「モノ」を作ること自体に尊敬の念を抱き、感動する。
そちら側の人間で居たい。
レールの上に乗っかっているだけでは、どうも楽しみが少なくないか。