今、あなたは何か考えていますか?

その考えにとらわれていませんか?

 

考えるのはとても大事なこと

 

デカルトが

「我思う、故に我在り」

としましたが

この「思う」というのは

フランス語でpenserという動詞で

「考える」という意味があります。

 

私たちが自己意識と呼んでいるもの

それは「考える私」だと

近代以降、考えられてきました。

 

デカルトがたてたこの自己は

近代的自己、コギト、デカルト的自己と

言われています。

 

現代、その自己の在り方に疑問が

呈されています。

(もっとも仏教はそもそも自己も「空」なのですが)

 

考える私よりも、もっと先駆的な何かが

あるんじゃはないか?

 

そもそも自己なんてあるの?とか

 

考えるときは、自己に対して何か

対象として他者がたてられていて

それについて考えている

 

対象があることで、自己が自己として成立

している

 

対象を立てて、それについて考えることで

自己は自己同一性を保っている

 

自己同一性を保つことで

時間が生まれます

 

そして人間はその時間に因果性を

つけることで

自己同一性を保とうとします

 

それは対象にも因果性を見出そうと

することです

 

因果性は一種のストーリーです。

 

過去と未来に勝手に因果性をつけることで

現在という自分を成立させる

 

ただ、自己とはそういう

時間性という一本の線で繋がれるものなのでしょうか?

 

よく

「今を生きる」と言いますよね。

 

「今を生きる」というのは

こうした因果論でつながれた一本の線としての

自己の在り方ではなく

 

因果にとらわれずその都度を生きる

今は消えてなくなるものであり

過去も未来もそこにはない

消えゆく「今」しかない

という在り方です。

 

そうなると

自己もまた今しかなく、

持続する自己なんて

あるのか?

という話になります。

 

ただ、そうは言っても、何か感じている自分も

いるわけです

 

気分次第なんて言い方がありますよね

 

気分次第で生きている方が

実は「今」を生きている

ということになるんです

 

そういうときに

自分を考えちゃうと

気分屋の自分のほうが自分がないみたいな

感じがしますよね

 

いえ、そうではないんです

そこには気を感じ取っている

自分がいるんです

 

「考える私」より先駆的な何か

 

西田幾多郎が「純粋経験」と言ったり、

レヴィナスが「享受」の体勢と言ったりするもの

 

対象と自己に分かれる前の

自他未分の状態

 

その場で何か気が立ち上がり

それを感じている何かがある

 

それについて考える自己が出てくるのは

その後のことなんです

 

気分

感じること

 

それをまず大事にしましょう

 

嫌なことは嫌なこととしてちゃんと感じましょう

 

感じたら、一つの

方向性がなんとなく出てきます

 

その方向性にこそ

自分という本質が

あったりするんです

 

感じることが最大限に活かされるのは

美しいものに触れたときです

 

自然の風景、言葉、音楽、芸術、パフォーマンス

などなど

 

それを観て美しいと感じる時間を

たくさんもちましょう

 

その快は、

あなた自身の中にある

唯一無二の目的意識に

あなたをつなげてくれます。

 

その快は、哲学者カントによると自然の内にある合目的性と

調和しているから

美しいと感じたり、心地よいと感じるものなのです

 

それは私たちが自然から与えられた

使命のようなものでは

ないのかと思うのです

 

ドイツの哲学者ハイデガーは、人間が本来的な

「今を生きる」在り方をすること

「現」を開くとい言い方をしますが

 

今、感じているものは

それがどんな感情であれ

まず享受し十分味わう

 

過去にとらわれたり、先のことを心配するよりも

「今」やりたい快を追求する

 

それが

「現」を開くということかなと

最近よく思ったりします。

 

 

 

金沢21世紀美術館 ブルー・プラネット・スカイ

           8年前に撮影した写真