幸せってね お互いが釣り合うから幸せなんだ
お互いがお互いを思わなければ それは辛いことなんだ

 

ボクが幸せだと思っても キミが辛いと感じたら
その幸せはマボロシなんだ

 

だって本当に幸せなら 悩む事なんかないはずでしょ?

ヒトリビトとかいて大人になって
フタリビトとかいて夫人になるんだ

サンニンが日を浴びると春を感じるけど
ヨニン以上になるとどこかで余りが出てしまう

ボクはいつか大人になって
いつかだれかとめぐり逢う

やがてボクの夫人になったら
いつかコドモと一緒に春を感じたい

そんなボクはみんなの余りもの
そんなボクにも今年の春はまたやって来る

自分自身で色んな考えを見直す時によく「漢字」からのつながりを考えることがある。

自分はそれを「漢字遊び」と言っている。

 

ゴルゴ松本さんとかは漢字を使って最近はいろんな場所で講座を行っているみたいですね。

 

でも、「漢字」ってちゃんと向き合っていると色んな発見や見直しができるものなんです。

 

そこで、今回は自分が「漢字」を使ってちょいとやってみようと思います。

 

 

今回のテーマは「教育」について

 

よくテレビとかで「家庭教育がなんだ」とか「学校教育がどうだ」とか言ってますが、

元々この「教育」とは何ぞや?と思う事がある・・・。

 

辞書では・・・

他人に対して意図的な働きかけを行うことによって、その人を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。(大辞林より)

 

と記されている。

 

つまり、一人では「教育」は成り立たないという事である。

 

 

そして、ここからですが、間違ってはいけない事。それは・・・

「教育は教え育むものではない!むしろそれは単なる押付けでしかない!」

と自負しています。

 

もちろん、漢字で書けば「教え育む」となります。

でも、それだけでは「漢字のつながり」が無いわけです。

 

ここで、漢字のつながりを使って見直してみたいと思います。

 

「キョウイク」という読みを別の漢字で書いてみると・・・

「共育」「恐育」「今日イク(行く・良く・逝く)」・・・

最後のはちょっと無理くりなところもありますが、結構これも重要なので入れておきます。

 

「共育」とは造語ですが、

親・教師・学校など教育権を持つ主体だけでなく、多様な立場や領域の人や組織が連携して教育を担うこと、あるいは教育・養育・指導を行う側と受ける側がともに学び成長すること。(デジタル大辞泉より)

 

そして「恐育」も造語ですが、

「恐怖という感情に訴えかけて、教育する事」(Google検索より)

 

良い教育をすればそれは「共育」であり、悪い教育をすればそれは「恐育」となるわけですね。

 

じゃあ、「良い教育になるにはどうすれば良いのか?」ってなるわけですが、ここからはダジャレにはなってしまうのですが・・・

 

・今日行くところで共に学ぶ。

・今日良くするために共に学ぶ。

・今日逝く(今日まで逝った)人から何かを学ぶ。

 

というのが大事なのではないでしょうかと思うわけです。

 

学校で、家の中で、子供から出てくる「なんで?」という事に

「ただ答えを出すのではなく、一緒になって考える」

 

それが、教育の真意にたどり着けるのではないでしょうか?