先日、笠松競馬場の近くに仕事で訪れたので、ついでに見に行くことに。
別にレースが行われている訳ではないから中々閑散とした雰囲気だったんだけど、ちょっと小高い丘(?)から全景を眺めているだけでもそこそこには楽しめた。


実を言うと、僕は笠松に競馬場があるということを全く知らない競馬弱者。
たまたま笠松の得意先に挨拶に行く用事があった。
車を走らせていると、そこかしこに厩舎と思われる施設とサラブレッドがいるものだから、得意先の社長に「ここって馬の産地か何かなんですか?」とマヌケな質問をしてしまった。
社長は笠松出身の大名馬、オグリキャップの素晴らしさをひとしきり僕に語った後に、「すぐ近くだから一回行きたまえ」と会話を締めた。


基本的につまらないインドア趣味しかない僕だから、ギャンブルはほぼほぼ興味がないんだけど、少し前に先輩に連れられて「中共競馬場」に行った。
最近造りかえられたのか、全てが立派で綺麗な場所だった。
1巻からこち亀を読んでいる僕からすると、競馬場は両さんみたいな汚いオッサン(失礼)がいるイメージだったので、そのギャップにちょっとショックを受けた。たぶん寺山修司はこんな競馬場は認めないだろうなと思いながら、まんまと1万円をドブに捨てた(先輩に至っては5万を失うことに)。


笠松競馬場は中共競馬場と比べると、正に昔ながらという趣きだった。
建物は古かったし、その周りをウロついてる大人も良くも悪くも古い人間が多そうだった。
そう言えば社長が言ってたことを思い出す。
「段々笠松競馬場も苦しくなってるんだよね。地方競馬では頑張ってる方だけど。昔は武豊も結構来てくれてたけどさ、たぶんそのうち皆来なくなるんだろうな」
塗装の剥げた競馬場を囲む白い柵、土まみれの駐車スペースと十年は乗ってそうなトヨタ車。
競馬場にその日、馬はいなかった。
僕は次の得意先に向かうため、その場を後にした。
先週くらいから文庫本「深夜特急」を読んでる。
先日の三連休で社宅から実家に戻り、以前の僕の定位置のソファに寝っころがりながら四巻目を読んでいると父がやって来た。
「何読んでんの?」と父は文庫本の表紙を覗き込む。
それが深夜特急だと分かると「俺も若い頃読んだなあ、今でも若い人は読むんだ」と感慨深げに言った。
何故か僕はその言葉に妙に感じ入ってしまった。
僕の中に父親から確かに続く何かしらの連続性あるのだ。


父が深夜特急を読んだのはインドネシアでのことであるらしい。
単身赴任で渡ったインドネシアで同僚に勧められて読み始めたという(一歳だった私も父の単身赴任から約一年後にインドネシアに渡ることになる)。
作中にインドネシアは出てこないが、わりかし近くに位置するシンガポールやマレー半島が登場する。文化的にもかなり近しいものがある。
若かりし父が言葉も知らない異国の地でどんな気持ちでこの本を読んだのか。そして日本の我が家のソファで同じ本を読む自分。なんだか変な気持ちになった。

「コーエン兄弟の最高傑作は誰がなんと言おうと『ファーゴ』さ」とアキラは言った。
「そうかな?僕はファーゴよりかは『ノーカントリー』の方が断然好きだ。もっと言えば『バーバー』が一番好きだけど」
なっちゃねえなとアキラは舌打ち交じりに答えた。そして「ノーカントリーは衒学的すぎるよ」と少し小さめの声でつけ足した。
会話はそこで途切れた。
蛇口から一滴ずつ垂れる水の音がする。昨日から壊れてしまったみたいで、いくら強く蛇口を締めても止まらないのだ。
沈黙を破るノックの音がする。それは秒針の音みたいに精緻なリズムのノックだった。
アキラは言う。
「出てくれよ」


ドアを開けると警官が立っていた。彼の歯並びのちくはぐな感じやその異常に腫れぼったい目は、僕に俳優のスティーブ・ブシェミを想起させた。
「すみません。絨毯が盗まれたと通報を受けたのですが」
アキラと僕は顔を見合わせた。
オユキは卯兵衛にもじもじとしながら言った。
「あんた、あのねぇ……どうやらあたし、子どもが出来たみたいなの」
「本当か!それはめでたい話だ」
卯兵衛はいつもの調子に豪快に笑った。
どこかで誰かが喧嘩をしているようだ。怒声と鈍い拳の音が小さく聞こえてくる。
「でもね、あたし思うんだ。こんな荒んだ時代でしょう?子どもを産んでもちゃんと育てることが出来ないんじゃないかって」
「おい、オユキ、何を弱気になってるんだ!今までも上手くやってきたじゃないか。これからだって上手くいくさ」
卯兵衛はいつだってこうだ。いつだって根拠もなく万事上手くいく言い、屈託なく笑うのだ。しかし彼のそんな調子に感化されるのか、オユキも最後にはすべて上手くいくように思えるのだ。
「そうね、上手くいくわね。そう思うことにするよ」
「はははっ、そうさ、上手くいくさ」
卯兵衛はまた根拠なく笑った。
次の朝、オユキが目を覚ますと卯兵衛の姿は布団にはなく、それっきり彼は帰ってこなかった。しかしそれでもオユキはまだ卯兵衛を待っている。
「上手くいくわ」と彼女は、耳にこびついた彼の笑い声と共に生きている。
その日、サザエさんはワカメちゃんの左手をむんずと掴んで、闇市へと向かっていた。
「離しちゃダメよ。一生会えなくなっちゃうわ」
ワカメちゃんはサザエさんの言葉にぶるりと身震いした。一生会えなくなったら私はどうなるのだろう。ワカメちゃんはサザエさんの右手をぎゅっと握り返した。
闇市は活気に満ち溢れ、ごうごうと人の声が反響している。人々は戦後という時代が湛える不安感を拭おうと、猛然と闇市を闊歩していた。彼らが、どこかに私をさらおうとしているのではないかと思うと、ワカメちゃんは息が詰まりそうだった。
米や野菜を抱えて家に帰ったとき、ワカメちゃんは訳もなく泣いた。
なぜ泣くのとフネさんはワカメちゃんに尋ねた。海は恐ろしいわとワカメちゃんは顔を伏せながら答えた。