本当に小さな出来事?

トイレットペーパーの芯だけが残っていること、ありませんか。

「あ、ない…」 そう思って、次の人のために替える。

 

ほんの数秒のこと。

でもこの小さな出来事が人間関係の中では意外と大きな意味を持つことがあります。

 

 

気づく人と気づかない人

家庭の中にはよく二つのタイプがいます。

 

気づく人

  • 足りないものに気づく

  • 次の人のことを考える

  • 家の流れが回るように動く

気づかない人

  • 自分が使えたら終了

  • 気づいた人がやればいい

  • 小さなことは気にしない

どちらが良い悪いという話ではありません。

 

多くの場合これは習慣の違いです。

ただ、この違いが続くとある人の中で少しずつ疲れが溜まっていくことがあります。

 

 

「家事マネジメント視点」の違い

トイレットペーパーを替えるという行為は、実はただの作業ではありません。

そこには小さな思考があります。

 

気づく人側によくある思考

  • 次の人が困らないように

  • 家が回るように

  • 家族が気持ちよく使えるように

つまり、家全体を見る視点。

 

 

気づかない人側に多い思考

  • 自分が使えた

  • 問題なし

  • 終了

つまり、個人単位の視点。

 

まったく視点が違います。

 

当たり前扱いという静かな疲れ

最初は小さなことです。

トイレットペーパーを替える、ゴミをまとめる、食器を片付ける。

 

それが続くとふっとこう思う瞬間が出てきます。

「また私か…」

 

さらに続くと少しずつこう感じ始めます。

「私がやる前提になっている…」

 

作業が大変なわけではありません。

 

人が疲れるのは当たり前扱い」されること。

静かに繰り返され、何かが削られること。

 

「気づくのは私」「回すのも私」そんな感覚が、静かに積もっていってしまうことが。

 

 

「突然怒った」と見えるとき

外から見ると、こう言われることがあります。

「そんなことで怒る?」

「突然キレた」

 

でも気づく側からすると、それは突然ではありません。

 

その人の中では

  • 小さな違和感

  • 小さな我慢

  • 小さな疲れ

がずっと積み重なっています。雪のように少しずつ。

 

だから爆発した瞬間だけを見ると突然に見えても

実際には、長い時間の積み重ねです。

 

 

小さいからこそ扱いづらい

こういう問題は、実はとても多くの家庭にあります。

でも、なんか話題にしにくいし、扱いづらいんです。

 

なぜなら

小さい問題だから。

 

真面目に話すと空気が重くなりそう。

「それぐらい」と言われそう。

 

そう思と、どう扱えばいいのかよくわからなくなる。

 

だから多くの場合、なんかモヤっという思いはありつつ、どうしよと思いあぐね先送りにしてしまう。

 

そして、「何も言わない」という選択になる。

 

そしてさらに、小さな我慢が静かに積もっていきます。

 

 

気づく人が管理者になってしまうとき

気づく人は、家庭を回している人です。

でも疲れが溜まると、こんな変化が起きることがあります。

  • 「これやって」

  • 「それ片付けて」

  • 「なんで気づかないの?」

すると関係は少しずつ

 

「あれっ」パートナーから管理者と部下の関係に近づいてる?と、気づくときがあります。

 

すると管理される側は

  • 指示されている

  • 注意されている

と感じることもあります。

 

こうして関係の空気が少しずつ変わっていくことがあります。

 

 

トイレットペーパーは関係のリトマス試験紙

化学には、リトマス試験紙というものがあります。

液体に触れると状態がわかる紙です。

 

家庭の中にもそれに似たものがあります。

トイレットペーパーの芯もその一つと言えるかもしれません。

  • 気づいた人が自然に替える

  • 「ありがとう」がある

  • お互いに配慮がある

トイレットペーパーの芯一つにも、気持ちの交流が見えるとき。

そんなとき、小さなことは問題になりません。

 

でも関係が疲れているとき、同じ出来事がストレスの種になることがあります。

 

 

侮れない小さなサイン

トイレットペーパーの芯。

本当に小さなことです。

 

でもそこに、関係の状態がふと現れることがあります。

 

もし「あれ?」と思うことがあったら。

それは誰かを責めるためではなく、少し立ち止まるサインかもしれません。

 

ほんの小さな気づきが、関係の温度を少し変えることもあります。

 

たかがトイレットペーパー。

 

でも
されど関係。

 

 

されど関係

トイレットペーパーの話ではありません。
おわかりと思いますが、人は、トイレットペーパーで怒るわけではありません。

 

人が疲れるのは

自分だけが関係を回していると感じたときです。

 

でも関係は、一人で回すものではありません。

 

そしてもう一つ。

 

優しい人ほど知らないうちに、管理者になってしまうこともあります。

 

もし思い当たることがあったら、それは誰かを責めるためではなく、関係を少し軽くするチャンスかもしれません。

 

家庭の中の関係のバロメーター=トイレットペーパーリトマス試験紙(笑)

化学は嘘をつきません。

 

結果から現状が見えます。

 

再度、言わせてください。

たかが、トイレットペーパー(状態感知装置)

されど、関係。

 

 

永遠の論争というショート動画見たことありますか。

 

日常でありそうなパートナー関係の中でのすれ違いというか、お互いのいい分というか…

 

あるあるだなぁとも思うのですが、なんかなぁ…

悲しいような、こんなこと望んでるわけじゃなだろう。て思ってしまいます。

 

家庭の中で顔を合わせていれば、いろんなところで、「えっ!こうじゃないの?」という場面がお互いにあると思います。

 

「えっ」だけならいいのですが、そのたびにぶつかって、どちらかあるいは二人とも嫌な思いをしてしまうのは悲しく感じます。

 

この違いや、すれ違いはどういう着地になるのがいいのか、話し合ってもすれ違いになってしまうように感じます。

 

お互いこうしたい、こうなりたい、こうなってほしい、を主張し続けている限り合意点はないでしょう。

 

 

お互いの主張がぶつかるのなら解決方法としては4つしかないと思います。

 

①相手の言い分通りにする

②こちらの言い分通りにしてもらう

③話し合ってお互い納得の上の案通りにする

④別れる

 

現実的にはこれしかないと思います。

 

ただ、解決策4つの中から選択したからとそう簡単に解決にはいかないと思います。

 

なぜなら人間は感情の動物なので、①~④までの解決策があると言っても簡単に決断できないと思うからです。

 

好きという感情があるので、特に④別れるという決断は、そう簡単にはできないと思います。

 

ただ、すれ違いを繰り返し、①相手の言う通りにするということで、あらゆる場面を済ませていたら、相手に合わせていた方の感情に何らかの影響が出てくるかもしれません。

 

相手に合わせていてもそれが定着し、感情に影響が出ないなら問題にならず心穏やかに暮らしていけますね。

 

影響が出てしまったら、疑問が生じて来ます。

 

なんでこんな生活になってしまっているんだろう、これって幸せなのか。

何でこんなことでイライラするんだろう、なんで心平和に暮らせないんだろう。

 

そうなると、選択肢が変わります。

 

今まで解決法①だったのが、②③あるいは④に変わっていくかもしれません。

 

変わっていくならいいんです。次なる自分の生活や生き方、やるべきことへの決心がついたことになるので。

 

感情に影響があると、わからなくなってきます。

この生活のままはイヤだ、でも好きだから一緒に居たい気持ちもある。

 

そうするとまずは、③の話し合ってお互い納得の上の案にチャレンジする。

 

話し合いの案をやってみて、それがうまく機能すれば、心穏やかな生活に移行できていくでしょう。

 

やってはみたがうまく機能しないという結果もあります。

 

 

今までの定着した生活習慣はそう簡単には変わりません。なのですぐすぐ新しい生活習慣は定着しないということをわかっていることも必要です。

 

そうでないと、「今度からこうしようって決めたよね!」と責めることになってしまいます。

 

最初の導入時は失敗しがちなので、うまくいかず失敗してしまったら、そこはきちんと認める。

 

「前の習慣でやってしまった、ごめんなさい」と。

 

この一言が本当に本当に重要です。

 

「いいじゃん、今度、次はちゃんと気を付けてやるから」なんて言おうものなら、元の木阿弥です。

 

”謝罪”と、”いいじゃん”では伝わる意味合いが異次元的にメチャクチャ違います。

全くの逆、正反対です。

 

「謝罪」は、相手と話し合ったことを大事にし、ちゃんとリスペクトしているのが伝わってきます。

 

ですが、「いいじゃん」というこの一言は、一緒に決めた約束事を全く重んじず、軽んじ反故にした。悪くすれば無視した、最初からそんな約束は無いモノとしたと受け取られます。

 

一緒に真剣に話し合い考え了解した約束事へのリスペクト、尊重がないということを決定的にしたということです。

 

だから「次から」と言われてもまったく信じられない。

 

口先だけと感じるし、裏切られた。失望しガッカリさせられてしまった。

見下され、バカしてるとしか思えなくなります。

 

「謝罪」は反省しているのがわかり、次回からはやってくれるだろう、少なくともやろうとする意志や姿勢は感じられます。

 

一緒にいい方向にしていこうという気持ちが感じられ、未来志向への期待ができる。

 

でも、「いいじゃん」は、一緒にこれからもやっていけそうという芽を根こそぎむしり取られた感じ。

 

一緒に話し合い決めたたことの無意味さを感じさせ、これからに何の期待も持てません。終了ゴングが鳴らされたなと。

 

そして、感情に大きな影響を与えます。

④別れるという決心の方にググッと近寄ることになるでしょう。

 

一緒に決めたこと、やったこと。このプロセスは相手と一緒にやっていけそうという期待を持たせてくれるんです。

互いに平等感があり、尊重してもらえたと感じられ期待感が湧くんです。

 

なので喜びなんです。

 

ちょっとオーバーに言うとプロポーズみたいなものです。

相手を信じ二人でやっていこうとお互いがそう思い承諾できたと。

 

そう信じていたのが裏切りと失望、失望止まりならいいのですが、絶望だと答えは一直線に④別れるになってしまうかもしれません。

 

「いいじゃん」と言えてしまう、要するに相手の存在や考えを軽んじ尊重してないと宣言したようなものです。

 

信じてみようという気持ちが踏みにじられ、尊重を感じられないなら、やはり別れるという選択に大きく舵を取ることになるでしょう。

 

 

ただし、先ほども言いましたが、人の感情は厄介なので、好きという気持ちがあると、感情と現実生活の思いが一致せず、決定的決断を下すのが難しいです。

 

その場合は、③と④を何度も行ったり来たりすることになるでしょう。

 

それを繰り返しながらも③の案が定着すれば、心穏やかな生活がやがては手に入ると思います。

二人で向き合って同意した約束事の重み、その重要性、意味合いを感じ取れれば約束は守られます。それは相手への尊重があるから守るということです。

 

「約束」は「尊重」を具現化したもの。

 

ぜひ約束を守るということの思った以上に奥深い意味を、関係性に与える小さくない影響を感じてほしいなと思います。

 

 

 

 

 

今回学びの機会があり、そのバウンダリーのことを少し紹介したいと思います。

 

バウンダリー(境界線)とは、心理学において自分と他者の「心」や「身体」、「時間」、「価値観」を区別する「見えない線」のことです。

 

バウンダリーのことをすでに知っている方も多いと思います。

 

バウンダリーは冷たい壁ではありません。

自分を守り、本当に大切な人との信頼関係を維持するための「適切な距離感」を意味します。 

 

以下、ネットで調べても簡単に出て来ます。

 

  • 物理的バウンダリー: 身体的なスペース、プライベート空間、持ち物(例:無断で物を触らせない)。
  • 感情的バウンダリー: 自分の感情と他者の感情を分ける(例:他人のイライラを引き受けない)。
  • 知的バウンダリー: 自分の意見、価値観、信念を守る(例:意見が違っても尊重する)。
  • 時間的バウンダリー: 自分の時間を尊重する(例:無理な頼み事は断る)。 

 

パートナーとの関係がギクシャクという時、バウンダリーがあいまいになっていることが多いと感じます。

 

特に感情的バウンダリーの扱いに人としての成熟度が現れるのではと個人的には感じています。

 

自分や相手の機嫌によって、自分が振り回されないのが望ましいです。

自分の感情は自分の感情。相手の感情は相手の感情。

 

自分の感情を相手にぶつけたり、相手の感情を先取り的に受け取って対処するのは、バウンダリーの境界をあいまいにしていると思います。

 

イヤなことがあったり、不当なことや理不尽なこと。世の中にいっぱいあります。

街を歩いてても、電車に乗ってても。

 

いろんな気分にさせられます。

いい気分の時もあれば、ものすごく気分を悪くさせられる時もあるでしょう。

その中でもネガティブな感情は早く何とかしたいので、外に吐き出したり、気分を沈めたりしたくなります。

 

これは人として当然ですし、いいことですよね。

問題はその方法の選択です。

 

私はかつてこんなことがありました。

 

駅を歩いていて、若い女性が前を歩いていて、その方のかかとに踏んでしまったというか、引っかかってしまったことがありました。すかさず、すみませんと謝りました。

 

その女性は、振り向きざまに「ふざけんな!」と怒鳴りました。

私は驚きと同時に腹が立ちました。

 

これがやくざのお兄さんだったら、絶対に言わなかっただろうと思うからです。

おばさんだから言ったんだと思います。

 

気分悪いのはわかります、気分悪くさせられた張本人にその感情をぶつけるのもありですが、ちょっとその処理方法が未熟なんだろうと思わずにはいられませんでした。

 

そして、私も一般的には怒鳴られるほどのことでもないと思うので気分が悪かったんです。

 

その自分の不快感は、道中歩きながらブツブツ言うことで、とりあえず自分一人の中で納められたのかなと思いました。


若い女性も私も、気分の悪いのを引き受けなければいけないのは自分自身です。

 

自分の気分悪さも誰かの気分悪さも、その人の代わりに引き受けてしまうのも、引き受けさせるのも違う。

 

それはバウンダリーをあいまいにしての感情処理になってしまっているからです。

 

優しい人はイヤな気分やネガティヴな思いの解消のお手伝いを引き受けたくなると思います。

 

誰かに自分のご機嫌を何とかしてもらったり、してあげるのは親切なようで必ずしもいい事でないと思います。
 

気分の悪さを自分一人で対処できるというのはやはり高度なテクニックだと思います。

 

なので簡単なことではありません、難しいことです。

そのためにも自分一人で解消することを訓練する必要があると思います。

 

バウンダリーを超えて負の感情を分別なく現わしたり、バウンダリーを超えて親切心で相手の領域に入り、自力で治める機会を奪うのは望ましくないと思います。

 

自分の感情のコントロールを自身でできるような機会を持たないと、関係性に上下ができて、

 

常に下のものに自分のご機嫌を修正させるように強要したり、むやみやたらに感情の爆発、当たり散らすことを習慣づけてしまいます。

 

これは自分のバウンダリーの境界線を気ままに自分都合で動かし、相手のバウンダリーに越境し侵害していることになります。

 

力でバウンダリーを壊し、何かを手に入れるの支配ですし、やはり大人ではない感じがします。

 

バウンダリーは自分を守り、大切な人との望ましい距離の維持に役立つものです。

 

常々できるものではないかもしれませんが、ぜひ、自分のご機嫌とともに、その時の自分のバウンダリーがその周辺の人やモノと適切な境界の距離になっているか確認してみてください。

 

それらを習慣づけると、結構、感情処理が適切にできてくる。

かえって処理が簡単に思えてくると思います。

 

しだいにこんなことで気分悪くする必要ない。と、その事象そのものさえ問題にならないほど自分の感情やバウンダリーを確立できてきます。

 

そうなると人間関係は良好になるしかないですね。

自分のバウンダリーをしっかり維持して、自分も相手もしっかり確立。

 

ますますいい関係になっていくのではないでしょうか。

昔、こういうことを言う女性がいました。

私、平安時代みたいに通い婚が理想なんです。と。

その理由は、家事が嫌いで苦手だからと。

自分一人の分でさえやるの嫌なのに、人の分まで出来ない、やりたくないって。

 

だから私は結婚できないし、男性にとってはいい事じゃないですかと。

男性は家事をきちんとやってくれる人と結婚したいと思っているだろうから。

 

こういう女性が結婚しないのは、不幸な男性を作らないことで世の中に貢献しているって言えるんじゃないですか(笑)…と。

 

そういう考えもあるんだと思いました。

いろんな考えがあり、いろんな受け取り方があると思います。

 

その通り、そういう考えなら結婚なんかすべきでないという方々もいるでしょうし、

 

お互いがその考えを理解して了解しているなら、そういう形態の結婚もありと考える方々もいるでしょうね。

 

結婚生活って家事だけではないはずですが、この女性にとっては家事というのが結婚では大問題になるということのようです。

 

社会学的結婚生活の主な機能は以下のようですね。

  • 経済的安定と分業: 共同生活による家計の統合、保険・ローンなどの経済的信用力向上、互助的な保険機能。
  • 社会的承認と地位: 夫婦として周囲に認められ、家庭という社会的な信用を獲得する。
  • 再生産と家庭の形成: 子供を持つことの喜びや、次世代を育てる場として機能する。
  • 精神的安定と相互支援: パートナーとの絆による安心感、相互の生活・介護支援。
  • 社会制度の利用: 婚姻法上の権利・義務(同居・扶養)の享受。 
基本的に上記のことが結婚の機能とするなら、同居して一緒に生活をするのが現実的効率的に感じます。

生涯を通して二人で生きていく人生のパートナーと認め合い、その関わり方、生活の仕方をどのようしていくか。
 
お互いの考えを理解し共有して維持していくのが結婚生活のように思います。

恋愛の時のように、ただ一緒に居られるだけで幸せと、ただ楽しく過ごすだけではなくなります。
 
毎日の生活を回すには様々な機能を働かせないと回っていかないのは明らかです。
生活を回すとなると、お互いの元家庭での価値観の違いが出て来て、ぶつかったりします。

ここからが結婚生活の本番だといえるでしょう。

この違いをいかに二人で共有できる新しいものに変えて、納得して二人の生活の中に取り入れて維持していくか。
 
通い婚にしても、一般的な同居結婚生活にしても、どちらか一方の元家庭の考え方や価値観、ジェンダー意識感を押し通そうとするとうまくいかなくなるでしょう。
 
自分優先でないと我慢ならないのなら、結婚という形態には進まずに恋人関係のままでいる方がいいのかもしれません。
 
結婚生活となると「二人の生活」になります。
今までの「自分だけ」の自分中心の生活のままという訳にはいきません。
 
そして時がたつと、さらに二人の生活を基盤にした家族が増えていきます。
 
そうなれば、また生活の回し方が刷新され、そこでもおのおのの元家庭での子育ての考え方の違いが前面に出て来て顕在化してきます。
 
そして、その違いの認識と理解と共有、そこから刷新や昇華まで行ければさらに望ましいのではないでしょうか。
 
結婚生活の様相は、昭和の時代から平成、令和と移り変わって来て、社会の仕組みや労働環境も変わってきました。
 
社会の変化のスピードが速いので、結婚生活の機能1つ1つが多様な変化になっていて、それを整えるのに追いついていないようにも感じます。

社会変化に準じていろんな便利な家電や食事に関することなどもたくさん開発されています。が、家事がなくなることはありません。
 
そして子育てほど、予想通り、予定通り、計画通りいかないことはないでしょう。
家庭生活の中でとても大きな意義があり、情愛が大きく関わる重要な機能です。
 
ですが、今まで効率のスピード感の世界で生きて来て、その思い通りに行かない
ことごとくは、戸惑いとイライラと不安と無力感を感じさせるかもしれません。
 
その扱いの不慣れに一番身近なパートナーとの関係に揺らぎが出る危険性もはらんでいます。
 
効率を求められる社会とその通りに行かない家庭の中での子育ては、時間の速さと求められる意義がまったく違っています。
 
家庭の中で家事は決して欠かせられない最重要性がありながら、できれば誰かにやってもらいたいという、ちょっとサボりたくなる、あまり人気のない労働となりがちです。(得意で好きという方が大勢居るのも知っています)
 
作業も多く重労働であり、終わりもなく、精神性の質の高さや完璧性も求められやすい傾向がある労働でもあります。
 
その割に、やって当たり前でその労力の費用対効果は見えずらく、評価されずらく、経済的価値も低くされがちです。
 
世間で言われるエッセンシャルワーク分野が家事と言ってもいいのではないでしょうか。
 
家庭生活は子どもにとっては全宇宙的と言っていいほどのものです。
 
世の中を知る初めての社会なので、どんな家庭を二人で作るか、子どもをどんな人間として成長や可能性を引き出し輝かせるか重大な責任の重い大役です。
 
なので結婚生活は、別人格・別価値観の二人が人として出会い、その違いありきでの理解と共有を、驚きと戸惑いを感じながらも
 
どんどんアップデートさせ、二人で、その家族独自の価値観を作り上げて、みんなで幸せになるということを追求していくことだと思います。
 
二人の違いがあることが重要なんですよね。同じなら進化や変化はない。
違っているから新しくできる。意味が重厚になるものが生まれる。
 
そう思うと結婚生活って素晴らしいですよね。
大人も人として育つ、人たらしめる。そして子どもがその素敵な二人に育てられる。
 
だから人類は、結婚という関りを古今東西し続けて来ているのではないでしょうか。

「力」って言葉は多くはいい意味でつかわれると思いませんか。

 

「体力」「知力」「気力」「能力」「実力」「求心力」「努力」「協力」「精神力」「全力」「忍耐力」「持久力」「財力」などなどは割とポジティブな意味。

「武力」「破壊力」「殺傷力」「暴力」「独占力」「支配力」「攻撃力」「拘束力」は、どちらかと言えばネガティヴな意味。

 

仮にポジティブとネガティブに分けましたが、表裏一体で使い方によっては逆転した意味にもなりますね。

 

どちらにしろ「力」は何かをその時点からある方向へ動かすエネルギーと言えるのではないでしょうか。

みんなが望んでいる方向に力を使い変化が起きれば、それはそれは歓迎され喜ばれますよね。

例えば、重篤な病気にかかり高額な手術代がかかる場合に、みんなに募金の協力を呼びかけその望みを叶える。

 

これは多くの方の力添え、協力が結集して起こった望ましい変化と言えると思います。

反対に、脅し的な困りごとや頼みごとを押し付けるようにして、有無も言わせないような特殊詐欺のようなことをして大金をだまし取る。

 

そんな方向の悪知恵磨きに注力したり努力したりするのは、望ましくない力の使い方だと思いませんか。

 

ちょっと力の使い方が違うのではと思ってしまいます。

何が言いたいかというと、「力」って素晴らしいものにも、恐ろしいものにもできちゃいますよってことです。

1つの力の行使が一方から見ると望ましいが、他方から見ると苦痛や侵害になったりということもあります。

 

例えば、一方の良かれと思っての「しつけ」が、他方から見ると「支配」や「束縛」になったりとか。

力が素晴らしいものにできると知っているから、力の使い手は自分の思いがいい方向に進むために使っていると思います。

ただ力は、物事や人などの対象に変化させるものだから

その対象にとっても、力の行使者と同じように望ましい方向となっているのかどうかの考慮や配慮は必要でしょう。

 

とても興味深く、そしてちょっと難しいと思いませんか。

同じ物事に力の使う側、その影響を受ける側では、その力でやろうとしている目的や意味合いが全く違ってしまう。

 

予期せず真逆になってしまい、力を使って変化させようとしたことがうまくいかない、失敗ということも起こりうる。しかも意外に少なくない。

「力」には、自分や必要なものの存在を維持するという、大切で大きな役割、意味があります。

理不尽な力の行使をされた場合には、こちらとしては防衛力という力も必要になります。

「攻撃は最大の防御である」という教えもあれば、「最大の防御は防御なり」という考えもあります。

前者が能動的に「攻撃力」を使って存在の維持を目指すのに対し、後者は堅実な守りの「構築力」を最強にして敵の戦意を喪失させての存在の維持です。

力は自分にも周囲にも大きな影響があるので慎重さが必要です。

 

使い方によって素晴らしくも恐ろしくもなる「力」ですから、

 

力の使い方、自分の存在維持のために関わる人や事に対して、そして自分だけでなく互いが在ること「存在」のために使っていくという思いで、力を慎重に大切に使っていきたいものです。