「戦争の大問題」丹羽宇一郎 著

 

【第1章】戦場の真実
戦争は、勝っても負けても傷つく。普通の市民は人を殺せない。

ベトナム戦争当時のアメリカ軍の教官の話。
「敵を殺させるには、相手が人間だという感覚を徹底的に奪っておくことが重要。なぜなら、敵も同じ人間だと感じた途端、殺せなくなるから」

狂気に導かれた人間も無傷では済まない。
戦場での殺人が狂気の仕業であっても、殺人の事実は消えない。その記憶は、長く本人を苦しめることになる。

1人を撃てば2人目以降は抵抗なく引き金を引けるようになる。
殺人は日常となり、抵抗感がなくなる。戦争という狂気と自分が一体化してしまうのだ。軍隊は虐殺マシンと化す。
平時ではあり得ない虐殺事件が、ごく簡単に起きてしまう。

人間の弱い心や悪しき感情は、戦争という狂気の増幅装置によって暴走する。戦争は普通の市民を虐殺者に変える。それが戦争なのだ。

戦争末期の戦場の真実。
中国戦線中南部の兵士。圧倒的な戦力を持つアメリカ軍を相手に闘える武器を持たなかった。爆撃、砲撃に対して現地の日本軍に反撃手段はない。逃げるしかなかった。これが戦場の真実。
山中行軍。いちばんの問題は「食糧」。山の中で食糧になるものといったらカタツムリくらいしかない。

1941年のフィリピン。終戦までに投入された日本軍の兵力は約63万人、フィリピンでの日本人戦没者は約50万人。死亡率は79%。
山中に追い込まれた兵士の場合、その多くは病死、餓死、自殺であった。山中に食糧はない。味方同士、食糧を奪い合って死者も出す悲惨な状態に陥った。

日本兵は、軍隊としての統率も階級制度もない敗残兵となっていた。敗軍となった日本軍は組織として規律を失っていく。山中ですれ違う日本兵同士でも油断はできない。
次第に食糧目当てに日本軍同士、日本兵同士で襲い合うようになった。人の暗部が表面に吹き出してくるのが戦場である。
もし、日本兵が山に逃げ込む前に降伏していれば、悲惨な目に遭う人は少なかったかもしれない。現場を知らない大本営の指導者は降伏を許さなかった。前線の兵士たちは、投降ができないまま飢餓と病に耐えた。

戦場では95%の人間が精神に異常をきたす。
日本軍による現地人の虐殺、暴行、略奪、強姦はアジア各国であった。「南京大虐殺」「マニラ大虐殺」だけではない。小規模な事件は数多くあった。
元兵士からの証言。
「どうせ死ぬんだから何をやってもよいという気持ち、最後にもう一度よい思いをしたいという気持ちだった」

日本国内で普通に暮らしていたときには、みんな善良な市民だったはず。
極限の状況下に敷かれた人の集団は、たやすく鬼畜となるのだ。これが戦争の真実である。


現地の中国人にとって日本軍は殺人集団であり、略奪集団であった。

飢餓地獄。
人肉食が横行した。極限状況が生んだ行為。
人肉を食べた人を非難することはできない。攻めるべきは、善良な市民であった兵士をそこまで追い詰めた、時の為政者の罪である。

天皇陛下万歳と叫んで死んだ兵士は誰もいない。
「死ぬときには自分の大切な人を守るために死ぬんだ。国のためじゃない」
戦争は、戦場だけでなく、日本人全体の価値観まで狂わせていたとしか考えられない。戦争で生き残った人に共通するのは「運」である。
生き残った兵士は、自分が生きることでみんな必死だった。必ず生きて帰らなければならない理由があった。
「生きたい。生きて帰らなければ」という強い意志があったから、運を拾うこともできたのだろう。こうして命を落とした人たちの最後の叫びが「天皇陛下万歳」であるはずがない。

明暗を分けた終戦後の収容所生活
中国に派遣された日本軍の部隊で満州にいた部隊は終戦後ソ連に武装解除され、ほどんとがシベリアに送られた。シベリアでは最初の1年が最も死亡率が高い。死因のほとんどは栄養失調。

南方ミンダナオ島でアメリカ軍に投降した兵士は、現地捕虜収容所へ。
戦争捕虜として労役に就かされた。山中の飢餓地獄と比べると天国だったという。

蒋介石率いる国民党軍に武装解除された、捕虜である日本軍兵士は待遇に恵まれた。
帯剣が許されたまま収容所に入り、食事は十分に与えられ、備蓄食料が少なくなると国民党軍の本部へ食糧を取りに行き、大量に積んで帰ってきた。
収容所で十分な食事と休息を与えられた後日本へ帰っていった。

周恩来は、ソ連スターリンの提案で、シベリアで勾留されていた日本軍兵士2500名のうち、中国で重い罪を犯した1000人を受け入れ、その総責任者となった。
「戦犯と言えども人間である。人間である以上、その人格は尊重されなkればならない。戦犯たちを殴ってはいけない。蹴ってもいけない。1人の死亡者、1人の逃亡者も出してはならない」
という方針で戦犯の処置を徹底するように命じる。
結果、戦犯は手厚く扱われ、十分な食事が与えられ、強制労働もなかった。中国人管理所員は戦犯たちに礼儀正しく、殴ったり怒鳴ったりすることもなく態度は丁寧だった。

悲劇の復習を戦犯管理所や裁判で行えば悲劇は連鎖する。周恩来は悲劇の連鎖を止めた。
「怨みに報いるに徳を以ってす」とした蒋介石も悲劇の連鎖を止める決断をした。
中国での日本軍兵士の扱いは、他国の捕虜の処遇とは大きな違いがある。

注目すべきは、勝手満足するだけでなく、その先を見据えて敗軍の将兵を扱う彼らの為政者としての冷徹さにに感心する。

300万人を超える戦没者のうち、100万人前後は民間人の犠牲者。
海外戦没者の数は、240万人、そのうち軍人が約212万人、残る28万人が民間人の犠牲者。
海外での戦死者の死因は6割以上が餓死、病死であったと言われる。
それに自殺者を加えるとその割合は7割を超えていたのではないか。

大きな原因として「戦陣訓」の影響が大きいと思われる。「生きて虜囚の辱めを受けず」の一文は、食糧が尽き満足な武器さえ持たない状態でも、兵士に投降することを許さなかった。
当地に眠る人々にとっては戦後はまだ終わっていない。

中国や韓国は日本にいつまでも「お詫び」を要求する、何度も詫びたのだからもう十分じゃないかという意見は日本国内の一部の声ではない。
しかし、日本が中国に対して、十分やるべきことをやったかというと必ずしもそうとはいえない。
たとえば、中国吉林省に旧日本軍が遺棄した毒ガス兵器が推定で約20万~30万発埋まっている。国際条約上、この夥しい数の毒ガス平気を回収・処理する責任は日本政府にある。
毒ガス兵器は中国に遺してきた日本の負の遺産。ここでもまだ戦後は終わっていない。