国語の勉強って、悩みますよね。

もちろん国語を指導するというのも悩みます。

『国語を勉強する』のか、『国語の勉強をする』のか、

こういう書き方一つ取ってみても、

同じことを言ってるような、違うことを言ってるような、

まあ、あまり深く考えずに同じようなことと、

そんな風に捉えても、問題はないと思うのですが、

国語の問題には、そういったほんの少しの違いを見抜く力が

試されるような問題もなくはないのです。

ただ、純粋に、なぜ国語を勉強するのかというと、

それは他人を知るための練習をしているのだと、

僕自身はそんな風に思うのです。

そのために、漢字、語句(慣用句やことわざ等も)を数多く覚え、

(共通の認識を持つために)

文法等、言葉の共通の使い方を理解していくのです。

そうして、この文章を書いている人は何を訴えたいのか、

どういう気持ちで、どういう状況でこれを書いたのか、

といったことを、文章を読んで、考え、想像する、

その練習を繰り返すことで、将来出会う人達のことを理解し、

理解し合うことが出来れば、より良い社会を形成することが出来、

そう出来なければ、社会を形成することすら困難になってしまう、

そんな恐れもあると思うのです。

これは国語に限ったことでなく、社会にも理科にも共通することであり、

勉強の先には必ず何かが繋がっているということを認識して、

学ぶことが大切だと思うのです。

多くの教科を学ぶことによって、より深く、またより広く、

人を知ることが出来るようになると思うのです。