例えば、子供はこんな疑問を抱きます。
「なぜ勉強しなければならないのか。」
答えはいくつもあると思いますが、一つは、他人との関係を築くためです。
社会に出るということは、より多くの人と多様な関係の中で、
時間を共有しながら過ごすということです。
そこでは、おそらくお互いの意思を確認するということが出てきます。
共通の言語を学んでいれば、他の人と意思の疎通が出来ます。
同時に、多様な共通認識が形成されていれば、
より多くの人と繋がりを持つことが出来ます。
共通の知識が無ければ、社会を形成するのは困難なことになるでしょう。
そのため、言語(国語や英語)、数学、理科、社会等を学ぶようになり、
それらが試験科目になっているのです。
もちろん芸術だって、他人と共有したり、共感したりできるのですが、
多様な考えや感じ方が多過ぎるため、試験科目としては都合が悪いのです。
また問題を解くということは、与えられた情報の中から取捨選択をし、
それまでに積み上げた知識との整合性を考えながら、
問題を解決するということで、
一般社会においても、他人と共有している情報を読み取り、
これまでの知識から導き出される方法を使って、
何らかの問題に対処するということがあるでしょう。
言わば、こうしたことのための練習なのです。
社会は一人一人違う人間が集まっています。
もしも全員が個性を主張したら、どんな社会になるでしょうか?
そして、それは皆が幸せで楽しい社会になるでしょうか?
ナショナリズムも、リージョナリズムも同様だと思うのです。
世界という概念が生まれてしまった現在、
ある国や地域だけが幸せであったとして、
そこに暮らす人々は幸せを感じて、生きていけるのでしょうか?
こんなことを少しずつ伝えながら、色々なことを教えています。