以下、読売新聞オンライン(2022/10/22 10:00 鉄路ノート 旅行・長崎)の記事全文。
◯見出し
長崎のJR大村線・南風崎駅に刻まれている「引き揚げ列車」の記憶…加藤登紀子さんも利用した
◯記事
JR大村線には戦後、満州(現・中国東北部)などからの引き揚げ者で混雑した駅がある。鉄道が国有だった頃の 南風崎はえのさき 駅。大きな荷物を抱えた家族連れがここから次々と列車に乗り込み、故郷を目指した。
かつて引き揚げ者が故郷に帰る列車に乗り込んだ南風崎駅。現在は周囲の光景も様変わりし、往時をしのばせるものはほとんどない。
長崎県佐世保市・針尾島の浦頭港には139万6400人余りが上陸し、最寄りの同駅から1945年10月~50年4月に運行された専用列車は約1150本に上る。歌手の加藤登紀子さん(78)も、その列車を使った一人だ。
加藤さんは満州のハルビンで生まれ、家族4人で帰国。同駅から母親の古里・京都へ向かった。当時2歳で記憶はないが、母親からは、窓のない貨物列車だったこと、大陸での移動が約1か月間に及び、疲れ切った体で乗車したことなどを聞いたという。
現在の南風崎駅前には、引き揚げとの関わりを伝える案内板が掲示されている。加藤さんは「70年以上前に過酷な戦争があり、列車が多くの引き揚げ者を運んだことを忘れないでほしい」と力を込める。
そして、以下は郷土の礎の中の我が父についての記載抜粋。
昭和十七年十一月四日召集都城西部第一七部隊に入隊、黒田部隊(独立守備隊)に編入、東満地区警備勤務に服務、八路軍の討伐戦に参加、部隊は大連、自身は奉天にて終戦を迎える。ソ連軍の捕慮となって、大連にて抑留生活を送る事になった。
抑留中ソ連兵の監視の下、工場の機械解体作業や飛行場の新設、大連ー旅順間の道路新設工事の作業員として強制労働の明け暮れであった。昭和二十二年三月長崎の南風崎に帰還復員完結。
一度行って自分の目で確かめたかった南風崎駅。
南風崎駅、何もなっかった。
以下は現地での撮影。
この中のひとりが父だった。
ただそれだけの話。
無口だった父。
いつも酔っ払うと「アメ公、露助」が口癖。
もっと聞きたかった戦争時の話。
きっと話さなかっただろうと思う。
うちの人が言う。
「今回の旅、思い切って行ってよかったね。」と。
本当に思い切って行ってよかったよ。ありがとう。
(今日の短歌)
西海の 浪漫求めて ひとり旅
父の無念を 追いて叶わず
今の世に ひとり佇む 南風崎
永遠の平和の 祈り届かず
それでは、また。感謝。