80年前の日本 | BOBlog

BOBlog

 日本はまだまだ大丈夫!

麻生外相、ロシア側に抗議 遺体引き渡しなど要求
 
について、80年前の日本はどう対応したか?

 

メルマガ「JOG Wing 国際派日本人の情報ファイル No.761 H15.12.10」 より
 

 父の友人に樋浦丈作さんといふ越後人がありました。
 明治の御代に雪の越後を後にして、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、総武線沿線に櫻湯とふ銭湯八店舗など経営して世を終へられました。

 

 この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です。

 

 氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯(ソ連)の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、抑留されました。此処までは今日と同じです。

 

 取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるか、と思った程ださうです。ありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました。いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免、露西亜紅茶まで振舞ってにこやかに釈放するではありませんか。

 

 解き放たれた樋浦さん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました。

 

 天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです 半信半疑の儘、ともかくも港へ向はうとふらつく脚を海へ向けました。その瞬間、何故、助かったかが判りました。

 

 沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ。陛下の赤子にかすり傷だに負はせなば、ウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以てソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです。旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう。皆、感泣しました。鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで‥‥

 

 舳(みよし)に菊の御紋を戴いた日之本の國の鎮(しずめ)に護られて、樋浦さんは無事、日本に帰りました。取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き抜いて、二十年ほど前に亡くなりました。

 

 勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして生涯穿き続けた一生でした。「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」

 

 國家國民が心から一体感を抱き、同胞愛に燃えてゐた時代の想ひ出を、聞いたままに記した次第です。