吉野のスギ花粉 | 山犬日記 - 高知在住都民の独り言

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2008年2月から介護赴任して9年が過ぎました。
2016年6月から犬と暮らしています。

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花粉が飛ぶようになると思い出すのが、9年ほど前に遭遇した吉野のスギ花粉だ。樫原神宮に行った後、五條市から熊野川河口の新宮までドライブしようと吉野山中を抜けようとしたが、あまりに花粉が強くて十津川郷付近で断念した。後にも先にもあれ程迄に強烈な花粉に遭遇したことはない。


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十津川郷、ここは「天誅組の変」のゆかりの地である。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊王攘夷派浪士の一団(天誅組)が孝明天皇の大和行幸に先駆けて公卿中山忠光を主将として大和国で決起した。


ところが大和で天誅組が挙兵した直後、京では政局が一変していた。会津藩、薩摩藩と気脈を通じた中川宮が尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こした(八月十八日の政変)。これにより、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任が決定された。これらの決定は会津藩ら諸藩兵により御所を封鎖した上で行われ、宮門に駆けつけた長州藩兵との間で一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は官位を剥奪されて失脚した。朝廷の実権は公武合体派が握ることになった。


情勢が一変し幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅した。大和義挙、大和の乱などとも呼ばれる。結成時の同志は38名うち18名が土佐脱藩浪士であったという。吉村寅太郎をはじめとし、池内蔵太、那須信吾などである。


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吉村寅太郎の辞世の句は
「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」
華々しくも哀れな句だが、春ならどうだったか。


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その頃は今のように花粉症は無かったのか。


十津川郷の帰りには一度は天誅組に恭順し後で幕府軍に寝返り天誅組が攻め込んで返り討ちになった高取城址に登ってきた。かなり高い山の上にある。


天誅組の変、血の気だけあっても何事もならないクーデター失敗の代表だろう。今日も政治について勇ましい言葉が飛び交っているが、そんなに簡単に世の中は動くものではない。


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倒幕、明治維新は非常に複雑な構図が存在している。複雑すぎるので比較的省略されがちだが、そのキーマンは孝明天皇の存在だ。朝廷から見た世情の認識の変化はどのようであり、時に応じてどのように政治に介入しようとしたのか。そしていつ誰がどのように朝廷の権威を利用しようとしたのかを知らずして明治維新を理解することはできない。またこれが後々の現代史に及んで行くのだから、学ぶ価値は大いにあるところだと思っている。