4月の水祭りの頃にミャンマーを訪れると、頭を丸めた托鉢僧の男たちにたびたび出会うそうだ。こうまで多いと、一瞬物乞いかと見えるが、一般の人々は彼らに食物を与えている。見知らぬ人に物を恵むなど、余程お人好しかとも思えるそうだがそうではない。ミャンマーの男性は一生に1度でも2度でも僧侶として過ごす。これは厳しい修行であり、それをすることが非常に大きな徳になると考えている。これに敬意を表し人々は食べ物を供するのだ。特にこの時期には一定期間、僧になって過ごす男性が多いらしい。
托鉢に出て、村人の家の前に立つとき、ただその家族が幸せでありますように、そしてすべての家族が幸せでありますように、と心の中で念じるのだという。「それもひとつの瞑想なのです。慈悲(Loving kindness)の瞑想です」と言う。このとき、どんな些細な欲望も感じてはいけない、この家族が良いとか悪いとか、この食事がうまそうだとかまずそうだとか、そういう判断をしてはいけない。ただただひたすらに念じるだけ…。そして5分経って何も提供されなければ、そのまま黙って次の家へと向うのだという。これが物乞いとの違いなのだろう。政情の不安定な国ではあるが、社会のシステムとしてこのような金やものの授受が長く続いているならば、素晴らしいことだと思う。
夜、街に出ているとシャッターの下りた店の前や、公園などで路上ライブをやっているのを見かける。その前には金を入れるための空き缶が置いてある。海外の路上のライブの光景もYouTubeで幾つか紹介されているが、海外のものと日本のそれを比べた時、かなり違いがあるのではないかと個人的に思っている。一つには日本では金を入れる人が少ないのではないだろうか。一つには立ち止まらせるほどの演奏や歌に出会うことが少ないことだ。過去を振り返ってコインを入れたことは2~3度、札を渡したことは1度だけである。なぜコインを入れたかというと、覚えているのは凄く若い男の子で深夜通行人もほとんどいないというのにギターを弾きながら大きな声で次々と歌っていたその姿勢に少し感動したからだ。頑張れよ、という気持ちだった。札を渡したのはプロなのに小さなステージの前に練習を兼ねて楽器を弾いていた姿にホロっときたからである。こんな所で有難うという気持ちだった。
極論だが、金を出す人も演奏している人もここでいう物乞いに通じる思考をしてしまっているからではないかと思えることがある。特に町の音楽祭などというイベントにそれを感じてしまうことがある。
費用対効果という言葉があり、払う投資に対して結果が伴うかどうかというようなことだと思う。(下賤なところで言えば、それだけ通いつめていいことがあるのか、と店や指名の…笑)
しかし、生活をしていて、これとは幾らか違った意味でも金は使っているものだ。
「浄財」という言葉がある。政治団体に指名を明記して寄付でもすれば、お礼の葉書などに必ず記されてくる。これなどは「浄財」とわざわざ書くことからして「浄財以外のことに使っている」と、言っているようなものだ。また、年末なので「世界の子供達に」とかの寄付金の募集案内をよく見かけるが、名前を知らせるような寄付は感心しない。中には一度寄付して次にしなければしつこく封書が届くようになる団体もある。
神社仏閣に参詣、参拝する時に、宗教法人だと分かっていても、日頃から決めている額を当たり前に賽銭箱に入れてくるのが良いと思っている。それをまるで入れた以上は何時までも気合を入れて拝んでいる人を見ることがあるが、興ざめしてしまう。
費用対効果も大事なことではあるが、そうでない金の使い方もある事を知ることも大事なことであると思う。
昨夜はコンサートに行った。今日は美容院に行ったついでに桂浜に足を伸ばし、水族館に入るつもりだったが、入館料の¥1,200.-という料金表を見て何故か気持ちが乗らず、やめてしまった。どちらも支払わないとその価値を判断出来ないのだ。店頭に並んだものを見て納得して買うわけではない。払う側には判断出来ないものに対して払う金が含まれるということだ。ではそれは何だろう?
そういう意味で金を支払っていることは沢山ある。私も商売をしている以上はその仕組みは分かっているつもりだが、いまだにふとこの疑問と向き合ってしまうのもまた事実である。




