物語に勧善懲悪が多い。水戸黄門漫遊記にしろ、大岡越前にしろ、遠山金四郎にしろ、悪党は、最初から決まっていてそれを主人公がやっつけ、ハッピーエンドを迎える。
この勧善懲悪、物語では善人と悪党が簡単に識別ができ、スッキリはするが、何かシックリしない。リアルな感じがしないからである。現実の善悪は区別がしにくい。
勝てば官軍、栄える者、成功者は、善であり、敗者、滅びる者、失敗した者は、悪であるという思想がある。だから、勧善懲悪の首謀者は何らかの権力を背景にしないかぎり、勧善懲悪は成り立たず、それには悪となる者の存在が必要だ。
つまり、社会正義は、何らかの社会的正義を背負っており、その社会正義は、権力によって保障される。
物語には普遍的な善と悪があって、その善と悪に照らし合わせ善人と悪人がいて、悪人は、自分が悪を為していると自覚している。それを前提として勧善懲悪は成り立っている。しかし、この様な普遍的な善というものはあり得ない。
普遍的な善が前提とされなければ、悪人としての自覚はあるのであろうか。悪を自覚できなければ、悪人は、悪人なのか。
テロリストは、彼等なりの正義をもっている。テロリストは、確信犯なのである。アメリカに対するテロは、テロを仕掛けられるアメリカにとっては、許し難い暴虐だが、テロを仕掛ける側にとっては、アメリカによってそこまで追いつめられたという論法である。だから、お互いに責任の擦(なす)り合いになる。
勧善懲悪と言うが、その大本となる善と悪は、何の根拠によって誰が決めたのかとなると多分に心許ない話になる。悪意で行動する者は、基本的にいない。善というのは、自己善なのである。つまり、自分を悪党だと思っている人間はあまり居ない。盗人にも三分の理と言う諺があるが、全て自分が悪いというのは、自分の存在をも否定してしまうことになる。という事は、悪党というのは、自分の善悪の基準に照らして悪いことをしている者を指して言うのである。こうなると悪党というのは、それぞれの自分勝手な独断で決まると言う事になる。
つまり、勧善懲悪的な話に違和感を感じるのは、もともと、普遍的な善悪という価値観は、なかったからである。つまり、誰もが正しいという善は、幻想に過ぎないのである。ありもしない価値観に基づいて、一方を悪と決め付けて裁いてきた。それが勧善懲悪の実体である。だから何がしかの違和感を現代人は感じる。それでも、善玉を善玉と信じていられるうちは痛快である。
現在の中韓はどうか?
一旦物事が上手く進んだと思い込み官軍気取り。経済の破綻を前に今度は悪あがき。官軍たる権利を行使しまくるその本心は既に各国に読まれている。
現在の自民党はどうか?
経済が好転し、前政権を悪玉として選挙で圧勝する。正に「勝てば官軍」。
しかし、本当に原発を維持することは正しいのか?何故他の政党はもっとこれについて突っ込んだ議論をぶつけないのだ。答えは簡単、経済の具体的な再建案を示して居ない弱みがあり経済に負担を強いることを言えないのだろう。
もし、新たなヒーローが登場し、これを誰かが強烈に突き、国民の世論が傾けば自民党も悪玉に追いやられてしまうかも知れない。
この様に勧善懲悪的な価値観によって社会の制度は築かれていることは紛れもない事実であり、社会の正義の危うさがそこにある。
また、社会正義の危うさを自覚したところに、現在の民主主義は成り立っている。だから、民主主義の根本は、契約であり、約束事であり、国民的合意なのである。善悪ではない。
それをよく知るべきだ。





