いまさら!と言うのでは無いのですが、人間とは、悩めるヒーローなんですね~~~~
人間誰しも苦難を背負いながら、坂道を登るが如しと 云われているが、自分しか見えていない!
過ぎ去った過去の傷跡を、後生大事に守りながら、平然としながら現実を 活きている。
他に明言することの出来ない傷跡は、しかし、多くの人々が経験している事らしい・・・・・・・
写真は本文とは無関係です。
ヤミの中が、こうして長くなると、傷跡がどうこうの ではなく、傷跡そのものの存在こそが、考える事、観察すること、そして文章にするキッカケになった事が自明の理として浮かび上がる。
出生地は、炭鉱地帯だった。
落盤事故や出水事故で、常に死人や 怪我人が出て、大きなサイレンの音がして、近隣の町や村に知らされる。
その度に病院はけが人で溢れた。
そして、数少ない高い煙突から、白い煙が静かに立ち登る。
幼い時の環境は、ある意味 特殊だったかもしれない。
大雨で台地の上の村は、水からは守れる環境であったが、それ以外は水浸しで大きな湖の中の小さな小島状態であった。
一番高いトコロが村の鎮守の神様が祀られておりました。
見える環境とは、違いますが、人々の心の中には、投げやりな一面が在ったような気がします。
どうせ 頑張ったからと言って、一瞬の死 には 勝てないと アキラメの風は吹き荒れておりました。
注: 今は、炭鉱閉鎖で、元の農村地帯に戻っております。
幼い私は14歳で故郷をアトにして、関西に越して来ました。
方言は九州なまりと関東弁はイントネーションが似ているらしく、東京から引っ越して来たらしいよ! との デマが流布していたらしく、なかなか 仲良くなれなかった。
先生は 国語の時間に よく 読んで下さいと 指名された。
先生の意図は、その時、見えていませんでしたが、彼らに社会に出たら出会うであろう他の地方のイントネーションを耳にして、置いてほしかったのでしょう。
私が九州から来たと知った級友たちは、態度を一変し、仲良くしてくれた。
しかし、それは、東京に負けているという ひがみ根性そのものなんだと複雑であった。
生まれた地域が何処であれ、私は、根性や努力で 負ける気はしない。しかし、社交性が今少しなので、それほどではない。
命の危うさがまん延する土地柄であったからなのか、人一倍 敏感であったし、どんな時も精一杯の対処をするクセがついていた。
この世には、たった一度の出現なのだから、 タイム は 見えない宝
そのものです。
そして、九州弁 → 大阪弁 → 京都弁 と 変遷しながら、ブログ発信という形で思いを発信出来る場所を得られて、感謝 しております。
そして、沢山の方々の 発信された情報を 見ることが出来る 幸せ も かみしめております。ありがとう御座います。m(__)m
